写真表現の自覚

神奈川県立近代美術館で25日まで行われていた畠山直哉展。その図録の中に「線をなぞる」と題された本人のステートメントがある。一貫して都市をテーマとしてきた畠山さんが、人間の作り出す「線」に対する懐疑を抱えていることを、原子物理学者、高木仁三郎が死ぬ前に病床で述べた人工的な線を忌避する感覚を引き合いに出して述べられている。そして今の彼のスタンスというのが、フォックス・タルボットが「自然の鉛筆」と名付けたケミカルな写真システムを使って、「都市の線」をなぞってみること、その行為を通じて、隠れていた何かを出現させ、都市の視覚的隠喩を見いだすことにあるのだという。

これを読んでなるほどと思う一方で、そんな素朴な一点突破型の思考で大丈夫なのだろうかという余計な心配の念を抱いてしまった。

「自然の鉛筆」を持ち出すことに異を唱えるつもりはない。タルボット(最近はトルボットと記すようになったのか?)の偉業は写真の古典技法を学んだ者には十分理解されるものだし、写真の原点を複製のできないダゲレオタイプに置くよりは、タルボットのネガ-ポジ法に置く方が厳密であるという価値観の主張も納得できる。しかし、ここでタルボットが持ち出される背景には、ちょっと前によく言われた写真原理主義的な、アンチデジタルという思考的枠組みが根強く鎮座しているのだということを考えてみたい。

先週末、久々に写真産業の大展示会(何年か前からPhoto Imaging Expo.という名になったらしい)に出かけてみた。かつてはこういった展示会にちょくちょく行ったものだが、ネットであらゆる新製品情報が手に入るようになってからは、全くその必要を感じなくなった。行けば行ったで人ごみに疲れるし、コンパニオン目当てにカメラ小僧な人たちが群がっているあの風景は本当に見るに耐えない。それは我慢するとして、今の写真業界というのはもう全面的にデジタル・ドリブンで成立しているということ、その当たり前の事実を直接肌で感じさせられたことは体験として大きかった。

何が言いたいのかというと、写真というものはどこまで行っても産業的なシステムであって、原理がどうあれ製品を生産してくれる産業体があって成立するものであるということ、それを忘れてはならないということだ。つまり写真家がいかに写真原理主義的な言説で訴えたところで、製品がなくなればそのシステムを使うことはできないのだ。それがいやなら自らの手で薬剤を調合し、紙漉きをやって、というレベルまで原理的にならなければならない。古典技法を経ていない人は、少なくとも写真原理主義は語れないというのはわたしのかねてよりの持論である。硝酸銀で手にホクロを作ったことのない人は原理主義を語る資格はない。売っている印画紙やすでに調合された現像液は、写真の原点でもなんでもなくて、ある時代の写真産業の産物にすぎない。

さて、畠山さんはステートメントの最後にこんなことを書いている。

・・・効率や利便性などの人間的理由のために、先端技術によって自然の愚直さを放擲するという、都市の形成プロセスと同じことが、この鉛筆そのものにも生じ始めたからだ。写真家は新しい鉛筆を「故郷」と呼べるのか。難問は複雑さを極めつつある。

周到にデジタルと書くことを避けているのだが、言いたいことはデジタルに対する懐疑であることは間違いないだろう。しかしこの懐疑は、デジタル直前のケミカル全盛時代に写真産業体の作り出した製品を、写真の原点に据えてしまうという大きな誤解によってもたらされている。

写真表現という行為は、写真という産業体全体の中の、ほんの瑣末な存在であること、写真全体にとっては微量要素に過ぎないということを忘れてはいけない。それはゲルマニウムやマグネシウムという重金属が生体にとって必要なのと似ている。微量要素が全体の健全性に寄与する。写真表現としての写真は、絵画や彫刻と同じように美術館に飾られたりすることはあっても、伝統ある芸術活動などではないのである。美術というカテゴリーに入れられているのは、たまたま現代にあって、その社会に対する影響の質が絵画や彫刻と似ることがあるからすぎない。もっともその曖昧な存在が写真の面白さですらあるのだが。

コメント

  1. Oshima より:

    何だか、引用文を読む限り、畠山直哉の写真に対するスタンスは、ホリエモンを批判する人たちのスタンスと一緒ですね。「資本主義」あるいは「市場主義」をもっとヒューマンなものにしなければならない、てな感じの。「資本主義」あるいは「市場主義」そのものが非・ヒューマニズムなのに。つまり写真そのものが「テクノ画像」なのに、写真を自然なものにしなければならないみたいな。明らかに「起源の捏造」ですね。そもそもタルボットの「自然の鉛筆」を誤解してますよね。「鉛筆」はもちろん、絵画のコードを意味しているわけですが、「自然」は「人間(の意思)」を排除したという意味であっても、けっして「自然性」を意味するわけではない。むしろ「機械的な直接性や自動性」を意味するものとして解釈しないと、写真の歴史的な意味を誤解・捏造することになります。けっきょく彼も「あしきモダニスト」ですね(笑)。

  2. Oshima より:

    畠山、お前もか。何だか、畠山直哉の写真に対するスタンスは、ホリエモンを批判する人たちのスタンスと一緒ですね。「資本主義」あるいは「市場主義」をもっとヒューマンなものにしなければならない、みたいな。そもそも「資本主義や「市場主義」自体が、非・ヒューマンなものなのに。写真はすでにして「テクノ画像」なのに、畠山は写真を「自然」化しようとしています。「起源の捏造」ですね。タルボットの「自然の鉛筆」に対しても、「自然」の解釈にあきらかに誤解があります。「鉛筆」は絵画コードを意味するとしても、「自然」はけっして「自然性」を意味するわけではなく、「人間の意志」を排除した「機械的な直接性や自動性」を意味するわけです。そう解釈しないと、写真の歴史的な意味を誤解・捏造することになります。「人間がつくりだす線」に対して、自然がつくりだす線=ケミカル写真なんて、あまりにも反動的な見方ですね(笑)。

  3. jsato より:

    大嶋さん、こんばんは。
    捏造云々を糾弾する、なんて気はさらさらなくて、ただただ疑問に思っているのが、なぜあの世代の多くの写真家たちが、デジタルに対して冷酷な態度を取り続けているのか、ということなんですよ。そんなに冷たくしないでもいいじゃないですか、と言いたくなっちゃう。

  4. oshima より:

    すみません。手違いで、同じようなコメントを二度もしてしまいました。デジタル=反・エコ、反・ナチュラル、工業的、資本主義的……。ケミカル=エコ的、ナチュラル、ヒューマン、反資本主義……みたいな図式が根強くあるのではないでしょうか(笑)。

  5. 小林のりお より:

    「効率や利便性などの人間的理由のために・・・」と畠山さんは言うけれど、地球上の生物や植物だって効率や利便性を求めて進化してきたとも言えるのでは・・・。自然って利己主義なんですよ、きっと。
    それはともかく、畠山さんとは昔、一緒に写真展やったり同じ道を歩いてきたという想いがあるのですが、気がついたらいつのまにか違う道を歩いていたと・・・。僕は彼ほど「写真」というよりは「美術」を信じていないから、デジタルで結構と思いますけどね。「故郷」なんか捨てちまえばいいのですよ。忘却の写真論ですよ。

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