シンガポール植物園

懸案のシンガポール植物園に行ってきた。あたりまえだけど、暑かった。でも自分はやっぱり暑いところが好き、というより暑いという状態が好きなのだな、と思った。さて、ご存知のようにシンガポールは町中に木が生い茂っている植物園みたいな土地で、その中にあってさらに場所を囲って植物園やるとはどういうことなのだろうと訝っていたのだが、いろいろと調べてみれば町中の木や花も勝手に生えているわけではなくて、つまりは人為的に公園的な都市を建設しましょうという努力が働いた結果としてそうなっているということなのだった。そして現在のシンガポール植物園の存在意義もそのあたりにあるらしい。つまり件のE.J.H.コーナーさんが副園長として活躍した時代とは、役割が全く違っているのだ。
日本占領時、シンガポール植物園とセットで昭南博物館を形成していた旧ラッフルズ博物館は、現在は歴史博物館という名前になっている。こちらは今大改修中で、2006年に再オープンするのだそうだ。名前が歴史博物館となっているので大方察しがつくわけだが、動植物や鉱物などの自然史的な収蔵品をある段階で排除して、歴史資料に特化した施設に変貌を遂げている。つまりこちらもコーナーさんの時代とは役割が違ってしまっているというわけだ。
衣食足りて、というわけでもないのだろうけど、近年のシンガポールの文化施設整備は著しいものがある。植民地時代の建物を博物館や美術館に転用して、それは堂々たるものがある。その中にあってこれら二つの施設は場所と建物、さらには用途までもが同じでありながら、その目的が微妙に違っている。宗主国由来の博物学の殿堂から国家アイデンティティ醸成のための施設へ。マレー半島全般をカバーする一次産業から、小さな島国の三次産業へ。シンガポールがこの100年が通り抜けた変化がそこには刻み込まれているのであった。博物学のような非・実学はもはや存在する余地はないように見える。

植物園の売店で、コーナーさんの著書『Wayside Trees of Malaya』を見つけて購入。この本、初版は1940年で『思い出の昭南博物館』の中では昭和天皇に献上した話が出てくるものだ(戦時中の天皇が寝床で読んだ唯一の本、ということになっているそうな)。そんなわけで歴史上の本という印象があったのだが、何と1997年に4版が出ている現役の専門書なのだった。たしかに木は60年やそこらで変化しないもんね。

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