昨日、帰ってきた。ドイツのいくつかの都市と、運河関係の施設を訪ね歩いた。80年も前のバウハウスの校舎がいまだに現役で使われているのを眺めたり、大型船が30数メートルもの高低差を上下するのを口を開けて眺めていたりした。
最後に立ち寄った6年ぶりのベルリン。ポツダム広場はもうすっかり街になっていて、人であふれ返っていた。ウェブカメラでちょくちょく見ていたつもりだったのだが、実際に行ってみなければ何がどう変化したのか、わかるものではない。残すものはきっちり残し、ぶっ壊すものは思いきりよくぶっ壊す。わかりやすい行動原理がそのまま具現化している今のベルリンは、見ていて痛快ですらある。
たまたまベッヒャー夫妻の回顧展がハンブルガーバーンホフ(ベルリンの現代美術館です)で始まったところで、これ幸いとさっそく見に行った。「Typologien industrieller Bauten」というタイトルで、タイポロジーとして組み合わされた産業施設の写真が、これでもかこれでもかと壁を埋め尽くしていた。これだけの量で一気に攻められるとまた別の面が見えてくるものである。まずとにかく卒倒しそうになるのは、1960年代に撮られたものと近年撮られたものとの間に撮影スタイルやスキルなど、表現における差異が全くない、ということであった。つまり夫妻はそれこそわたしが生まれた頃からずーっと、全く同じ手法で給水塔とか炭坑の櫓とか、撮り続けているというわけだ。どうあがいてもそんなもんにかなうわけがない。そこには写真の拡張の可能性とか電子メディアとしての展開とか、そんなわれわれが今、頭を悩ませている問題が入り込む余地はない。はじめから問題の立て方が違っているともいえるだろう。だからベッヒャー夫妻の作品には、「その先」というものはない。構造上、展開する必然性がないのだ。最初に理念を設置したら、あとはひたすら作品を生産するのみだ。そしてそれは美術史の正統に接続されるように、周到に考え抜かれた結果としてあるのだ(と思う)。
「再現としての平面画像」というのがその正統性のコアだろうと思っている。かつて絵画が持っていた究極の目的としての、目前の世界の忠実な再現。それは写真の発明によって絵画から剥奪され、写真装置の大量生産によって大衆化され、今いったいどこにあるのか拡散しすぎて見えにくくなっているのだが、やはりそれはどうしようもなく写真が持っていたのだ。それは水平垂直の確保や明晰さというような要素を頼りに、表面ににじみ出してくる。
写真を絵画の継承者としてとらえる立場であれば、ベッヒャー夫妻とその弟子たちの写真は極めて正統的である。しかし、写真は必ずしも絵画の継承者である必要はない。少なくとも現代においては、なくてもいい。そこにこそ写真表現の本当の自立性があるのだと考えている。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。「生きることは、見ること」が信条。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
