『ドイツ写真の現在』

そうそう、先週木曜にゼミの連中と、近美の「ドイツ写真の現在」を見に行った。

ベッヒャーシューレ以降のドイツ写真が、どの方向へ向かっているのかという問題に対し、簡潔でわかりやすいガイド/カタログとなっている展覧会であると思う。悪くなかった。

わたしがここで繰り返すまでもないが、ベッヒャーシューレ以降のドイツ写真というのは、伝統的な視覚美術の王道というものがあるとすれば、ただそこへの接続をひたすら画策する運動体であるということ。つまり写真プリントを、物理的に宮殿の壁面に飾れるものとして仕立て上げることが目的となっていると考えて間違いないだろう。つまりいくら現代写真とはいっても、ユニバーサルなメディアの上に成立することを図っているのでない限りは、従来の地域的文化のコンテクストの上に過剰に展開されるしかないということ、またそれが経済的成功の必要条件となってしまっていること。かようなテーゼが見えない金看板として、展示会場の各所に(ひょっとしたらトイレにまで)飾られていた。

そのことを糾弾するつもりは全くない。だってそれがドイツでしょ(笑)。わたしだってそれを面白がって見ているひとりなのだ。それはひとつの上出来な「見物(みもの)」としてとらえるべきものなのだ。

わたしがここで話題としたいのは、その逆が成立するかどうか。つまり今、ドイツで、「日本写真の現在」というような展覧会が成立する可能性があるかどうか、という問題だ。

しかし、おそらく、

今そんな展覧会が企画されたとして、だ、

日本現代写真の定番、いわゆる荒木=森山ラインからはずれた作家やムーブメントが取り上げられることはないだろう。

これを大きなため息とともに言っておきたい。そのような形で向こうで紹介される日本の写真もまた、従来の地域文化のコンテクスト(日本の場合それを写真道、とも言う)の上に過剰に展開されることになる。その意味でドイツと日本は本当に鏡像的だ。めでたくも本当に、東西の友邦だと思う。

言い方を変えよう。従来のラインからはずれた新しい表現が浮上する場としては、日独両国ともに不適格なのだ。従来のコンテクストから逸脱した表現は、従来のコンテクストからずれた場で浮上する。

ロシア、ノボシビルスク州立美術館のキュレーター、アンドレイ・マルチノフ。かれは小林のりおや高橋明洋をはじめとして、ウェブベースの日本の若手作家をロシアで紹介する活動を続けている(残念ながらわたしの展覧会計画は座礁して果てたが(笑))。そして彼の2006年の計画に「ノボシビルスク国際写真フェスティバル」というのがある。シベリア随一の大都市ノボシビルスクがロシアのどのへんにあるか、すぐにイメージできる日本人はほとんどいないだろう。実は日本とヨーロッパ、そのちょうど中間ぐらいの場所にあるのだ。そんなところで行われるイベントは、中国の奥地の何やらいうところで行われる恣意的な写真フェスティバルよりはよほど、地政的な意味合いを持つものとなるに違いない。

新しさ、などそもそも幻影にすぎない。ただ、未知の場や状況との邂逅という現象は確実に存在し、それこそが新しさの実体であるとみなすことができるようだ。そのような可能性がある限りは、わたしたちはそう簡単に窒息はしないものだ。

コメント

  1. 「ドイツ写真の現在」:はたして「現実」はカメラの向こうか、こちら側か?

    サブタイトル:かわりゆく「現実」と向かいあうために 会場:東京国立近代美術館 2005年10月25日??12月18日 ドイツの「今」の写真家を10組紹介する美術展

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