つづき。
その組み合わせの4つのタイプを書き出してみる。
●タイプ1(物質で撮り、物質で見せる)
物質として撮ることは、撮影機会の希少性がそのままイメージの価値に転化する傾向をもっている(シャッターチャンス、という概念)。機会は時間の流れの中で慎重に選択されるので、イメージ成立の主導権は、撮る側よりもむしろ対象の側にある。物質として見せることも、やはりある希少性の中に価値が作られる(オリジナルプリント、という概念)。一度物質化したイメージは消去も容易ではないため、イメージ生成はやはり慎重に行われる。
●タイプ2(物質で撮り、電子で見せる)
過去に物質として見せられたものが電子に置き換えられる場合(アーカイブ、データベースという概念)が主だが、何らかの理由で現在でも物質で撮られたものをあえて電子で見せるということがないわけでもない。いずれにせよ撮る→見せるの一方通行であり、表現論的に見てここに積極的な意味を見いだすことは難しい。
●タイプ3(電子で撮り、物質で見せる)
近年、最も増えているフォーメーションである。この場合の電子で撮る行為は、物質で撮る行為を技術的に代償するものである場合がほとんどで、その意味ではタイプ1の亜種に過ぎない。価値構造がそのまま受け継がれており、その重力圏から少しも抜け出していない。したがって、全く新たな表現がこの構造の中から出現することは考えにくい(タイプ1.5?)。しかし、次のタイプ4を経験することによってタイプ1を相対化し、その価値構造を意図的に取り払うことができれば、やや過渡期的ではあるが新しい表現を見いだすことも可能だ(タイプ3.5?)。撮影機会の希少性に引きずられることのない分だけ、イメージ成立の主導権を撮る側に持ってくることができる。
●タイプ4(電子で撮り、電子で見せる)
イメージが一度も物質化することなく、写真装置を通り抜けていく。そこにはタイプ1に見られる価値構造は発生しない。いわば垂れ流しで撮られ、垂れ流しで見せるという行為が延々と続けられる。あらゆるイメージの価値がフラットになり、一回性の希少さや客観主観の区別は意識されなくなり、無限の反復と複製の中で情報の流れとしてのイメージの大河が形成される。そのイメージ・フローの奔流に乗って、ここに何らかの新しい価値を発見することができるかどうか、それが課題となっている。
ちょっと話がズレてきたかもしれない。
縦長と横長の問題を考えていたはずなのだが・・・