あのルターが宗教改革をおっ始めた街が、ベルリンから列車で南に1時間ちょっとのところにあって、そこにクラナッハの描いた祭壇画があるというので見に行った。それは何とも小さな田舎町であった。この程度の規模の街に居ながら世界史に名を残すことなるのだから、ルターの威力は凄いもんである。テレビもネットもなくても情報はちゃんと伝わったわけだ。おそらくルターってのは想像を絶するような過激派だったに違いない。
クラナッハの祭壇画はそれほど感動するものでもなく、何となく締まりのない絵だなあという印象を持った。宗教改革直後に祭壇画なんか描かされる身にもなってくれよ、という声が聞こえそうなほど盛り上がりに欠ける絵である。きっと何を描いたらウケるのか、クラナッハ自身もよくわからなかったのではないか。免罪符とかやめてストレートに宗教やろうよ、というノリは、腐敗した商業ロックに否を突きつけストレートなロックを目指したパンクやニューウェーブの精神に通ずるものがある。しかしそのレコードジャケットとも言うべき祭壇画で、今ひとつ時代精神を爆発させられなかったクラナッハはぬかった。そのへんがクラナッハの限界だな。
巨大な板絵を見ながら全く別のことを考えていた。大きな平面が空中に据えられているという事態そのものが、なにかちょっとした、しかしとんでもない状態なんじゃないか。これはこうやって駄文をこね繰り回してもおそらく全然伝わらない感覚だと思うとくやしい。空中にでかい板が浮いているのって、かなり「キて」ると思うのだ。