
今日の草野水門。
なるほど。こんな風に撮ると水門も今っぽく見えるわい。今度からこれでいくか(笑)。
「最近の雑誌のブツ撮りって、何でもかんでもボカすように撮ってるんだよ」
ある人に言われて、そのつもりで雑誌見てみると確かにそういう気もする。料理の紹介記事なんかですら、必要以上に被写界深度が浅かったりパンフォーカスと逆方向にチルトをかけていたりで、画面のどこかを必ずボカしている。何でそうなったんだろう。
そういえば、その理由らしき説をどこかで読んだのだった。カメラがデジタルになったおかげで、普通に撮るとボケにくくなってしまった(コンパクトタイプのデジタルカメラの撮像素子はフィルムより面積が小さい→つまり同じ画角でもレンズの焦点距離が短くなる→さらにコンパクト化でレンズ口径も小さくなった→この二つの理由で被写界深度が深くなってしまった→で、普通に撮ると手前から遠くまで全部にピントが合ってしまう→携帯電話に付いてるカメラではもっと顕著になる)。そんな時期が何年か続いたせいで、ボケのある写真が珍しく、付加価値がアップして感じられるようになった、というものだ。
理由はどうあれ、ボケた部分を作らないパンフォーカスという表現は、古くさく見えるようになってしまった。ところがわたしはパンフォーカスが大好きである。だから可能な限り何でもパンフォーカスで撮る。したがってわたしのスタイルは古くさく見える。上等だ。文句があるならかかってこい、という感じだな。誰にケンカ売ってんだかはっきりしないけど。
フォトジェニックな状態の光を避けて、真っ昼間のあられもない光で撮る。背景をボカしたりしない。水平垂直ちゃんと出す。空は白飛びしてもいいけど、シャドーは絶対潰さない。長い間写真をやってきて、こんなスタイルにたどり着いてしまった。何でそうなったか、というと、この逆をやると「飽きる」からである。フォトジェニックは飽きる。ボケは飽きる。斜め構図は飽きる。ハイコントラストは飽きる。だからある時、飽きないようなスタイルを採用してしまって、面倒だからそのままずっと撮り続けている、ということのようなのだ。
そもそもの出所は写真表現上のひとつのイデオロギー(わかんない人は中平卓馬、植物図鑑、で検索してね)なんだろうけど、それに思想的に縛られてた時期はとっくに過ぎてもまだこのスタイルを続けているということは、やはりもっとも長持ちのするスタイルはこれなんだ、ということなのだろう。
じゃあいったい、何で長持ちしなければいけないのか。
もうこうなると理由はよくわからん。やっぱり「飽きる」ことへの恐れみたいなものがあるとしか言いようがない。古くさいねーと言われるよりも、もう飽きたよね、と言われたり、何より自分が飽きてしまったりするのがとってもイヤだ。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。「生きることは、見ること」が信条。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
