Airの再編集作業、まだずるずると続いている。2004年分から遡って、ようやく2003年分が終ったところ。1枚1枚のイメージを「写真」として固定化させることなく、単なるイメージのシーケンスとなるように時間軸の中に収めていく。それは「静止画以上、動画未満」という見方もできるかもしれないが、半立体のような中途半端で脆弱なフレームなのかもしれない。
2003年1月に撮られたイメージの中に、大嶋浩の写真に関するアフォリズムを画面複写としてとらえたものを発見した。もうどこにも残ってないだろうから、勝手に引用してしまう。「Dのための、未来のための、いくつかの断片」と題されて2003年1月24日付けでサイトにアップされたものだ。
写真とは、自分が見た素材に
表現の形態を押しつけることではない。
写真とは、自らの思い出、旅、愛や喪、
夢だのファァンタスムだのを物語ることではない。
人は、自らの神経症、特異な趣味性、
個人性を手立てに写真を撮るわけではない。
大嶋浩のこの鋭いナイフを使って、巷にあふれる写真表現をばっさばっさと切り捨てていくと、残るものは本当に少ない。その残り少ない中に、ずっとあり続けたいと思った。
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モホリ=ナギ(モホイ=ナジ)はバウハウス時代に、写真が光の造形であることを論じ、また実践したわけだが、後年のわれわれから見たその功績というのはフォトグラムとフォトモンタージュの二方面にのみ、注目が行っているように思われる。フォトグラムは当時は画期的な技法であり、また「光の造形」という概念がそのまま現象になっているわかりやすさとして受け取られたのだろうが、今日の問題意識をもってそこから何かを汲み取るのは難しい。フォトモンタージュにいたってはその後、広告デザインに過剰に応用され、手垢にまみれてしまった感がある。デジタルの加工性などと接続されるに及んで、それは吐き気を催すほどに陳腐な概念にまで俗化してしまった。
モホリ=ナギが「写真は光造形である」と題したバウハウス機関誌上の小論( Fotografie ist Lichtgestaltung, in Bauhaus, vol.2, No.1, 1928/利光功 訳/バウハウス叢書別巻2/中央公論美術出版/1999)によると、写真の固有な領域、法則を可能な限り利用し、拡張するために彼が提示したのは三つの実践的試みであった。そのうちふたつは上に挙げたフォトグラムとフォトモンタージュなのだが、残りのひとつは、
より新しくより拡大された合法則性に基づく、
カメラを用いた撮影による制作。
という少々あいまいなものであった。そのための実践的研究と称して、彼は
これまで普通には行われない方式の撮影。
珍しい視角、斜め、上方、下方、歪曲、影の作用、
トーンの対照、拡大、顕微鏡撮影。
というようなことを書き残している。そして
また対物レンズの起こりうる歪み ー いわゆる撮影の失敗 ー
(仰角視、俯瞰視、傾斜視)は決して単に否定的に評価すべ
きでなく、それは連想法則に結びついた我々の目では果たせ
ない偏見のない光学像を与えるのである。
とまで書いているのだ。この残りひとつの実践は、他の二つにくらべて比較的、現代的価値が摩滅していないのではないだろうか。他の二つがあまりに以後の造形に大きな影響を与えてしまったおかげで、このあいまいなひとつは付随する単なる撮影スタイルとみなされ、その背景まで省みられることが少なかったのだ。
今、われわれはモホリ=ナギのプリントを見る時に、それをいわゆるビンテージとして見てはいけない。あの斜めったフレーミングの背後にある思考こそを読まなければいけない。思考はそう簡単にはビンテージ化しないのだ。天国の彼にデジタルカメラを手渡すことができたら、いったいどんな撮影をするだろう。それを考えるとちょっと楽しい。