
展示が終ってから、やっとステートメントを書いてみようという気になってきた。
写真は、単純に記憶と結びつけられやすい性質を持っている。10年前の写真を見て10年前の当該の出来事を思い出す。当事者にとっては、写真はそのための材料となるのだ。写真は、記憶の確認という作業を生み出した。記憶を反芻するように自律的に思い返すだけでなく、外部化した記録との照合を行うこと。しかしよく考えてみると、このことを通して、写真はわれわれが考える記憶というもの構造イメージを、逆に決定しているようだ。古くなった「現在」の知覚のスクラップ的集積。読み終えた古新聞の束のようなイメージだ。コンピュータが現れて以来、われわれは脳をコンピュータのアナロジーとしてとらえている。それと同じような大きな誤解がそこにあるのではないか。
ベルクソンの考え方に乗っかれば、独立した現在の知覚が先にあってその残滓としての記憶が集積されていくのではなく、ただ絶え間ない記憶の生産があるだけで、現在の知覚は独立どころか記憶のすべてが乗っかった精神活動ということになる。であるとすれば記憶はおそらく古新聞の束ではないのだ。常に古新聞の束をかかえて暮らしているイメージはあまりに美しくなさすぎる。身体には負担がかかるし、下手をすると床が抜けてしまったりするし。とにかくわれわれが普段考えている記憶の構造というのは、どうにもインチキくさい。で、その原因を作ってしまったのが写真(特に物質化されたそれ)なのではないか、という疑惑がある。
複数の写真を見せること。その際にわれわれは上記のインチキくさい記憶の構造イメージにに縛られることが多い。年代順に並べてみました、なんてのは極端だけれども、個展が新作(新撮影)発表会になってしまう傾向は明らかに縛りであろう。現在を言うために近過去だけを使う、というのもまた縛りである。現在の知覚にすべての記憶が乗っているのであれば、古い写真を使って現在を語ることはむしろ自然なことだろう。
近過去に撮った写真と、10年前の写真を突き合わせることによってそれを試してみようと思った。記憶の森に開いた瞼としての現在。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。「生きることは、見ること」が信条。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
