『徹底された光』

再来週、ゼミ展をやります。
今年度から、ゼミは写真だけで行くことにしました。ウェブアート、エレクトロニクスアートは今後、扱いません。わたしもいよいよ覚悟を決めたというわけです。


『徹底された光』
デンキシャシンの4つの自意識

浦上佳子・今村真継・宇田川真奈・星野耕史

2005年12月15日(木)~17日(土)
12:00 – 20:00(最終日18:00終了)
武蔵野美術大学9号館4F・演習室F

●ギャラリートーク:12月16日(金)16:30~18:30
大嶋浩(美術評論)、出品者、佐藤淳一(進行)

視覚芸術において光は不可欠な要素であることは言うまでもないが、光をどの段階まで物質化せずに扱うのか、そのやり方にはいろいろある。たとえば具象絵画は、パレットを屋外に持ち出したインプレッショニストの連中をその最右翼とするように、知覚された光を早い段階で物質に置き換えてしまうやり方である。一方の極としては実写ビデオが考えられるだろう。ビデオはそもそも最後まで光の様態を物質として固定しないやり方なのだ。アナログだろうとデジタルだろうと、ビデオテープを穴のあくほど見つめたところでそこに記録されているはずの光は読み取れないし、モニタースクリーンは電源を切ってしまうともはや光を発しない。これらふたつの極を視野にとらえた上で、写真や映画のことを考えてみる。映画や写真はフィルムという途中段階での物質化、を前提として成立していた。フィルムは当初、光を再現的に扱うための必然性を一身に担っていたものが、ある時期からやり方を複雑化することによって偶発的な光の変節を導き出すためにも用いられるようになっていく。どんなやり方もその傾向から逃れることのできない、手段の目的化が始まったのだ。手段という葉っぱの上に乗った目的という毛虫が、少しずつ食い進んでいって、最後に手段は穴だらけの葉っぱとなる。
電気や磁気という不可視の、動的なある状態によって光を置き換えるやり方には、途中段階をひとつすっ飛ばす以上の意味はないのかもしれない。あるいは虫の食った途中段階を物好きな悪魔にでも売って、その金で怪しいブラックボックスを買ったようなものかもしれない。肯定的な意味でも否定的な意味でも、これは従来の写真じゃないよというひとは多い。それならいっそのこと別ものとしてしまい、便宜的にこれをデンキシャシンとでも名付けてしまえばいいのだ。われらがデンキシャシンによって捕捉された光は、ちょっと見慣れぬ顔をしている。何というか、光が徹底しているという感じがするのだ。光がすみずみまで行きわたっていると言ってもよいだろう。ひとはこれを指して闇がなくなったと言うが、闇なんてあると思えばあるし、ないと思えばはじめからないのである。

タイトルとURLをコピーしました