図鑑から標本へ

図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』)

写真がたしかにレファラン=指示対象を文字通り「指し示して」いるな、と強く感じられるのは、写真が物質化されたイメージとして作られたときである。言い換えると紙の上に形成されたイメージは、はじめから図鑑性を持ってしまうのではないか。それが中平の言う植物図鑑的写真であれば、さらに顕著になる。

一方で電気的に点の情報として形成されるデジタル画像だが、これは最終的に紙の上にプリントされればケミカルな写真と見分けがつかなくなり、上と同じことになってしまう。しかしそのプロセスにおいてはずいぶん別の経路を通っているような気がする。ごく大ざっぱに言いきってしまえば、デジタル画像は図鑑的ではなく、標本的な存在なのではないか。

標本と言っても、標本箱に収められてラベルの付けられた植物標本や鉱物標本のようなものではない。対象そのものを産出地から切り離して保存するような、現物の標本(specimen)のことではなく、デジタル信号処理のAD変換におけるサンプリング(sampling=標本化)のそれである。どちらも文字で表すと「標本」なので、ここでその違いを主張するのは何だか言葉の遊びのようではある。

音は音によって記号化することはできないから、音の図鑑を作ろうとすれば、それはおのずと標本集を作ることになる。アナログによる音の標本化は、物質に痕跡として音圧と振動の変化を刻みつけることによって達成された。デジタルによる音の標本化は、まさに「標本化+量子化」というプロセスを経て音圧と振動の変化を数字の羅列に置き換えるのだが、このプロセスはある段階以降、デジタル写真と全く同じ道筋をたどることになる。データになってしまえば視覚情報も聴覚情報も、さらにはテキストも同じ数字の羅列にすぎないということだ。これは決して悲観的なニュアンスで言っているわけではない。われわれが今生きているメディア環境の根幹、インフラはそうなっているということを意識化しただけのことだ。

かつて大嶋浩はデジタル写真に現れる傾向のひとつとして「音響化」という要素を挙げていた記憶がある。どういう文脈だったか忘れてしまったのだが、おそらくは音響の持つ空間遍在性というフラットさを、目の前の対象に縛られてしまう視覚に対比したのだったと思う(間違ってたらすいません)。

しかし、ここでは全く別の意味で、デジタル画像によって視覚が音響的な扱いを受けることになることを述べてみたかった。なにものかを指し示すのでなく、それが形成する光の様態をただ受けて、数字に変換される(標本化される)にまかせる。その標本は紙にプリントしてしまえば、その途端に対象を指示する図鑑になってしまう。モニタで見ても、紙ほど強力ではないにせよ指示対象は明白である。このまま続けると、再生をしない状態がもっとも「それらしい」という論旨になってしまいそうだ(笑)。

しかし視覚情報が、聴覚情報と同じように人間が直接検知できない形式で保存できるようになったことは、意識化しておいたほうがよいだろう。それは単なる舞台裏や楽屋がどうなってるのか的な問題を超えていると思う。絵であれフィルムであれ、以前の視覚情報は保存状態や再生待機状態においても目で見えてしまうものだったことを。

まずは目の前の事物を「録音(標本化)するように」撮影してみるのだ。それからもっとよく考えよう。

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