最近のタバコはまずそうに見える。
タバコを吸わなくなってもう何年になるのだろう。今のわたしはとにかく年に1本も吸わない。吸いたいとも思わないし、道を歩いていてうっかり歩行喫煙者の後ろについてしまったときなど、後ろから張り倒してしまいたくなるほど、タバコが嫌いになってしまっている。
はじめて試したタバコが、ショートピース♪・・・ってのはダウンタウンブギウギバンドのスモーキン・ブギの1フレーズだが、わたしの場合はショートホープだった。理由は簡単。夜陰にまぎれてこっそり買う自動販売機。10本入りのショートホープはボタンの1押しでころんころんと2箱、出てくるのだ。その2個出ます、ってのが少年にはとにかくお得に感じられたのかもしれない。もっとも吸い始めのころだから、いっときに20本も立て続けに吸えるものではない(だってホープだぞ)。開けたての一本目がいちばんおいしい、という経験則からすれば、20本をわざわざ二つに分けて供給してくれるのは、今考えるとあれはある種の演出だったのだ、と考えられなくもない。
そして大学生の頃はハイライトを愛用(愛飲?)していた。世はマイルドセブン全盛だったが、あんな紙の味しかしないタバコは金をドブに捨てているようなもんだと思っていた。だからマイルドと名のつく銘柄は意地でも吸わなかった(しかし今考えてみるとそのハイライトだっておそらく出た当時は軽さが売り物だったんだろうな)。とにかく、タバコの味のしないタバコは、タバコである理由がないと考えていた。そしてバイトの給料が出ると洋モク(死語だ)。そうだそうだ洋モクだ!洋モクのことを考えていたのだ。
キャメル、セーラム、マルボロ、ラッキーストライク。たしか当時は一箱、300円ぐらいしたはずだ(ちなみにハイライトは150円ぐらいだったか)。こいつらは特別な、いわゆる舶来もの(これもほとんど死語)だったのだ。舶来タバコはそこいらの道端にある自動販売機なんぞで買えるわけではない。たとえ自販機に入ってたとしても自販機で買ってはいけない。なぜか必ずやデパートの1階にある、舶来タバコ売り場で買われなければいけない。舶来の品とは本来、そういう取引をされるべきものなのだ。デパートの制服を着たおねえさんがうやうやしく手渡してくれるパッケージには、健康がどうの吸いすぎたらどうにかなるよだのといった無粋な文言は一切、書かれてはいない。だいたいタバコ吸う人間は自己責任で肺ガンだの何だのになるんであって、そんなものをタバコ会社の責任だといって訴えるなんてとても自立したオトナのすることではないと思う。タバコとアスベストは根本的に違うものとして考えなければいけない。
で、そのおねえさんの手からうやうやしく渡されるタバコのパッケージだ。どういうわけか今、そのことが気になっている。薄い包装紙でちょっとふっくらめにパックされた両切りのキャメル。その対極のような、理性を形にしてみましたとでも言いたげな、ぱきっとしたエメラルドグリーンの箱に入ったセーラム。それらはとてもおいしそうに見えた。そしてキャメルのパッケージを開けて、人さし指の第2関節と第3関節の間を使ってぱんぱん、とたたいて最初の一本を取り出し、オイルライターで火をつけて吸い込むその一瞬。こういうのを至福のひとときというのだなきっと。戻れるものならあの時代に戻り、一服つけてそのままさっさと帰ってきたいものだ。
今、なぜタバコを吸わないのかというと、今のタバコのパッケージが全くうまそうに見えないからだ。同じ銘柄でやたらとバリエーションがある今のタバコ自販機の窓を見ていると、なぜだかタバコに対する興味がきれいさっぱりフェードアウトしてしまう。それで今のわたしは全く、完全に、タバコが吸いたくなくなってしまっている。それはきっとパッケージ・デザインのせいだ。
ただこれには例外があって、葉巻だけは今でも吸ってみたいと思っている。葉巻はいまだ洋モクであり、舶来である。何だかわからないけどうまそう、というオーラが濃厚に残っている。だから吸ってみたい。ただ葉巻を吸うにはそれなりの場所とシチュエーションが必要なのが難点。バーのカウンターの片隅で、ドライマティーニだのヘネシーのブランデーだのを前にして、ピンストライプのダブルのスーツを着て吸わねばならないんだきっと。それからもう一つ。葉巻を吸う人には何というか人間的な重厚さのようなものが露出していなければいけない。原則として「きわめつきの悪者」でなければ葉巻を吸ってはいけないとすら思っている。したがって今のところ善良かつハードボイルド度ゼロであるわたしには、葉巻を吸う資格がまったくないということだ。