フリードリヒ・キットラーと、スイスのアーティスト、シュテファン・バンツの1996年の対談。1999年日本語訳。キットラーの入門書という位置づけ。ルフトブリュッケ広場というのはベルリン、テンペルホーフ空港の隣にあって、ベルリン封鎖の当時、連合軍が空輸作戦を行ったことにちなんでいる由。キットラーの自宅もそこらへんにあるそうな。
ハイデガーやフッサールなんかが人文科学の自然科学からの切り離しを図ったのに対し、現在では両者はふたたび接近するようになっている。かつての自然科学は分析的で、自然の美しさを要素に還元することに主たる目的があった。ところが戦争や「アメリカのテクノロジーのプレッシャー」によって自然科学は工学に変貌した。となるとテクノロジーはむしろ人文科学が成立するため基盤となり、メディアのシステム変動がおこる・・・のようなとらえ方でよいのかしらん。簡単にまとめすぎか(笑)。
面白いところは、キットラーがたびたびフィードバックという現象に言及しているところ。どうやら彼は自分で回路を組んで電気いじりをする人らしい(!)。コンデンサ(蓄電器、という訳は少々古めかしいと思う)のプラスマイナスを逆にして爆発した、なんていう話も飛び出す。そしてジミ・ヘンドリックスがフィードバック奏法を開発したことは、「誤用」が創造に結びついた例である、と指摘する。しかしそれはエレキギターやPAがアナログシステムであったから可能だった。それに対してデジタルのシステムでは誤用が創造を生むことはなく、誤用ですらプログラミングが必要になってしまう。「たとえばコンピュータを空に放り投げたら何かすてきなことが起こるんじゃないか、なんて希望をもつわけにはいかないんだ。何も起こりはしないんだ、それじゃ破壊にすぎないんだよ」。
放り投げる、というのは極端な例とは思うが、デジタルのシステムであっても誤用が何か有用な表現に発展した例はあるような気もする。ただその場合の誤用も、コンピュータ側からみれば、正常に動くプログラムのひとつなのだ。そうなると誤用という概念は、使用者側とシステム側のふたつの立場に分離しちゃうんじゃないか、いや違うな、誤用というものが成立するレベルがシステムによって違う、ということかしらん。デジタルの誤用は、かなり浅いレベルならありうる、っていうのではダメ?

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。「生きることは、見ること」が信条。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
