1987年、澁澤龍彦が亡くなった直後に出版されたこの本、18年後にようやく読むことがかなった。当時、平積みになっていた新刊を何度か手に取ってはみたものの、結局買うに至らなかったのは、ハードカバーの新刊を気軽に買いまくるほどの懐の余裕がなかったこともあるが、何といっても「これは今読むべき本じゃないなあ」という暗黙の忌避があったためだったように思う。何といってもわたしは当時20代の前半、現実的に生きることに精一杯であり、幻想文学のような曖昧なものは無理にでも振り払ってリアルな社会と切り結んでいくことが要請されていた頃なのだ。だからもし当時、ハードカバーのこの本を読んでいたとしても、強烈なインパクトを残してくれたかどうかはかなり疑問である。
もっと大著だったような印象があるのだが、文庫判におさまったそれは思いの外、短い作品だった。電車の中で読み終えるのはもったいないような、透明で清冽で、いとおしくなるような文章の連なり。そうだ、同じ電車の中で読むにしても、これは旅先で読むのがふさわしかろう。中央線の快速なんかじゃなくて、どこか瀬戸内海の夕陽でも眺められるような電車の車内。呉線あたりだろうか。あるいはこの物語のエンディング、親王の終焉の地であるシンガポールの片隅の、どこか熱帯植物の繁茂するようなところ。スコールが去った直後の高湿度な空気の中で読み終えるのがよさそうだ。
10代の後半、三島由紀夫の『豊饒の海』を旅先で読み終えたことを思い出す。『春の雪』は普通列車を乗り継いだ山陰のあたりで、最後の『天人五衰』は流氷の去った頃の紋別で読み終えたのだったと記憶している。仏教思想、輪廻転生のシステムが下敷きにあるところが、このふたりの遺作である両作品が近しいものとして自分の引き出しにおさまった。それにしてもこの引き出しはかなり久々に開けたような気がする。