木更津の新宿水門。目に痛いほど真っ赤。
east9さまから「水門の色、という問題」にコメントをいただいた。今の行政側の願いは施設が注目されるより、施設が景観と調和することだろうとのこと。ごもっともである。完全に外してた。わたしは絶対に行政の仕事はできない(やってはいけない)なと思った。
このblogはコメントが読みにくいので、この記事本文で話をつなげてみることにする。根本的な問題設定を外していて恥ずかしいので、別な側面から。
まずさっきコメントの方でわたしが書いたものを再掲しとく。
わたしが気になるのは以下の2点ですね。
1. 役に立つのは認めるけど、見えないように
やってほしい、みたいな指向は、長い目で
見て有益なのか。
2. 何でもかんでも景観配慮、なるべく目立た
ないようにと、自主規制的な動きになって
ないか。
これじゃあ、はしょりすぎで何だかわかんないな。
1. はね、何が言いたいのかというと、
行政が「景観との調和」を言う
↓
いい建築デザインには何かとお金がかかることが判明
↓
金(意匠コスト)は出ない
↓
じゃあ、地中に埋めちゃえ/カバーで隠しちゃえ
↓
インフラはみんな土の下、景観は今より良くもならないが悪くもならない・・・
↓
めでたしめでたし
と進むのがイヤなのである。見えないものを人間が意識し続けることは難しい。世代が変わるうちにその存在が忘れ去られ、軽んじられていく。災害は忘れた頃にやって来る。だから見せなければならないのだと思う。見せ続けることだ。最高度の意匠設計力を発揮して見せ続けられるものを作ること!
なんだなんだおい、熱くなってるじゃないか。
そういうことを言おうとしてるんじゃないんだ。
実は、行政側が施設を目立たせようとしてるか、埋没させようとしてるのかはあんまり問題ではなくて、わたしが以前から気になっているのは「2. 」の方だ。
景観と調和しない建築物は市民の槍玉に上がるので、刺される前に自主規制、みたいな力がかかっていることを心配している。いや、わたしがここでいくら心配しても世は何も変化しないので、単にわたしがイヤだと言っている、と言っておこう。払ってる税金分ぐらいは「イヤだ」を言ってもいいはずだ。
まず、景観法というのを見てみるとしよう。はじめてなんです、景観法。ドキドキ。
何だこれ。「良好な景観」というのが72回も出てくるのに、良好な景観ってどういう景観なのか、どこにも書いてないぞ。あ、法律なんてそんなものですか。わたしは絶対に法律の仕事はできない(やってはいけない)なと思った。
そうか。良好な景観がどんなものかなんて定義しようがないから、「美しい景観を作る会」なんてのが出来て、「良い景観30選」なんてのが現れたわけね。なるほど。今ごろになってやっとわかってきたよ。またしても出遅れている。
しかし待ーてーよー、事例を挙げるしかない「良好な景観」ってのは、モデルが過去にしか存在しないってことだよね。
東名高速道路が選ばれてて大いにびっくりだけど、クルマから見た高速道路風景は、物事の一面しか見えていないことは大山総裁が『ジャンクション』で見せてくれたとおり。少なくとも30選の中に鉄腕アトムに出てくるような未来の景観はない。良い景観的にはおまえ今後、ぜったい進化すんじゃねえぞ、と言われているように見えるのは、考え過ぎでしょうか。困ったものです。
そろそろ話をどこかに着陸させたい。
景観への調和、というのは、要するに「まことちゃんハウスをやったらあかんで」ということでしょ?そんなの当たり前じゃないですか。なぜかって?まことちゃんハウスの方が後から出来たからだ。後から来たものは前に合わせなくちゃいけないね、原則的に。
だからもし、まことちゃんハウスの方が先に建ってたとしたら、後から周囲に普通の家立てた人は文句言ったらいけない。自由というのはそういう制限があってこそ成立する。でないと世の中ジャイアンだらけになる。
水門だってこれと同じ理論が当てはまるだろう。水門の方が先にあり、危険だから扉体が赤だったのだ。それに後から建ったビルやマンションの人が文句言う(本当に言っているのかどうかにこそ問題の核心があるのだけど)のは、直感的におかしいと思っている。土地の用途が変わったのだよと言われそうだが、その土地がいくらオシャレになったところで、洪水や高潮が遠慮して避けて通ってくれるはずもない。
だからオリジナル状態の水門とオシャレにつき合う方法を考えなければいけない、ということだ。水門の色を変えるのではなく、見る側の目を変えるということだ。