Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231

●道を歩いていたり、電車を待っていたりする時、突然に考えがまとまることがある。まるで飽和溶液から結晶が析出するような感じで、まさに考えが結晶化したようなものなのかもしれない。今日はたまたま電車が空いていたのでノートを取りだして内容を走り書きしておいた。それによると・・・・(1) 絶対的「今」の肯定とその肯定力。(2) 「今」が蓄積していくような装置としての作品・・・・なんじゃこりゃ???●その場ではすごいいいことを思いついた、と思って、あとで考えてみると全然大したことなかった、の典型みたいである。しかし何とか解釈を試みようと思う●絶対的な今、というのは将来に何かを期待する今でも、過去を振り返る今でもなく、今があるだけ、の今ということを考えていたようだ。肯定力、ってのはですね、例えば、最近の女子高生って何かとっても自信満々な顔してるやつが多いんだけど、それって彼女らが振り向くべき過去も持たず、期待すべき未来も設定しない、今が一番いい年頃なんだから今が楽しけりゃいい的生き方をしているためだと思うわけだ。いい悪いの問題じゃなくて、今を肯定する者はとにかくなにがしかの力を持つんだな。その力がネガティヴな方向にアダ花のように噴出しているのが現代女子高生。同じ高校生でも野郎の方は逆に全然自信のある顔を見かけない。それはつまり将来を背負わせられているってことだ。今でもこの国はそういう構造なんだね。話がずれてきた。実は例えばどうでもよい。要するに今を肯定するとそれは力だぞーということを漠然と思ったわけだ●で、2番目の方はそれと関連があるようなないような内容なんだけど、つまりその一瞬の連続としての時間の流れ(それを肯定することは力の連続、ということになる)というものを考えれば、一瞬を肯定していくことは強い力の行為であって、例えば自分になぞらえれば毎日日付を確認してシャッターを押すことはすなわち力の行為であるってこと。もし将来に何かを〔過去として)残そう、なんて意図でやっているとすればそれは弱い行為ということになるんだ。そういうわけで、Daysプロジェクトは、結果の集合体として残っている過去の日付画像が作品というわけではなくて、撮影行為を継続させていく装置こそが作品だぞーということを考えていたらしい●これは何のために作品を作るのか、という根源的な問題に照らしてみればはっきりしてくる。今を確認し、肯定するため。言い方を変えればあー、おれは今生きてるなあといつも思いながら生きていること、そして撮ること。何か賞をとって褒めてもらおうとか、そういう目標で作品ができていくこともあるしそれを頭から否定するつもりはないが、Web空間においては幸いそんな価値付け構造ができていないから、そういった社会性のある明確な目標設定に基づかない単なる行為の連続、なんてのも作品として成立してしまうんじゃないかと思っている●その連続性のことを称してわたしは「Web(上の作品)は味噌汁である」なんて煙に巻いたような表現で言ってしまう。血肉化した日常行為としてのWebとのつきあいこそが作品なんであって、例えば○化庁がWeb上で会員制美術館(リンクしておこうと思ったんだけどURL忘れた)やったりするようなのはあんまり面白いことではないないような気がする。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。「生きることは、見ること」が信条。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
