Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231

●どうしてWeb上の活動が美術の行為(いわゆるアートとよばれるもの)になりにくいか、ない知恵を絞って普段からいろいろと考えている。今までに思いついた理由を二つほどメモしておく。【1】コケオドシがやりにくい・・・たとえば美術館で縦4メートル、横5メートルなんていう写真を目前にすると、人は「おお!アートか」と無条件で納得してしまう。その展示を成し遂げるまでのプロセスこそがアートだ、なんていうのは美術にビジネス原理を持ち込む理屈から派生する物言いだ。たとえば「大きさ」のようなコケオドシは昔から美術に必要不可欠な条件であったことは、資本主義以前の美術がどのような政治力に寄り掛かって成立していたかを思い起こせばすぐにわかる。それはそれとして、ではWeb上でのコケオドシはどうやれば成立するか。送り手だけがガンバってもダメ。受け手にも送り手と同レベル以上の受容環境(コンピュータの処理スピード、ネットワークの転送スピード、ブラウザのバージョン、プラグインやら何やら)がなければいけない。この構造は、一般の人にWeb上の表現というものへの接近をとても難しくしている。わかる人しかわからない、という印象のある現代美術よりもっと、Web上の表現はわかる人にしかわからない。今のところ。【2】舞台裏が丸見え・・・美術行為および美術家(作家)という存在は、ある種の神格化、ベールにつつまれたような神秘化をもってその価値とされてきたきらいがある。作家が作品を作り出すまでの思考、プロセスといったものはたとえば作家の死後、研究者によって日の当たる場所に持ち出され、人々はそれをありがたい物語として理解しようとする。ではWeb上ではどうだろう。作家が作品を作り出す速度と同じ速度で人々はそれを追いかけることができる。何を考え、何を受け入れ、あるいは何に反発し、どのようにして作品を組み上げていくか、ほぼオープンになってしまう。昔から作品制作には孤独が必要とされてきたが、Web上ではリアルタイムに「がんばってね!」コールが飛んできてしまう。本当の意味で作家は孤独になれない。しかも作家という人種は大体において誰かに自分をわかってほしい、という願望が人一倍強いから、Web上の日記なんて喜んで書いてしまう(ここもそうですね)。かくして作家の神秘化はWeb上では起こりにくく、その生産物は「ありがたい」美術としては受容されにくい。・・・・・・以上二つの簡単な考察は、けっして悲観的なニュアンスで書かれたものではない。Web上で表現を続けていくためには、Web上での表現の特性というものを把握しておく方が楽であり、従来型の美術と一線を画す必然性をそのようなところから意識化していこうという、何だか建設的な気分からここに掲げておくものだ。


