Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027
『花花緑緑』、1週間延長します。
イメージの追加はないのだけど、大嶋さんのテクストが積み上がっていくのを、ゆっくり楽しんでください。
それにしても、これまで写真の「色」について語られることが少なかったのはなぜだろう。おそらく銀塩時代には写真の色は産業的なパラメータに依存していて、絵画の色ように作家性に直結するものではなかったからなのではないか。画家がパレットで絵の具をこねるような具合に、積極的に色を扱うことはできなかったのだ。色で構成されたテクノ画像の歴史は、意外に長くないということだ。
自由に色が扱えるようになったといっても、世界を自分の好きな色で染め上げる、ということを考えているのではない。目の前の世界を把捉するにあたって、形状や空間といった理知的な見方を使うのでなく、色を手がかりとすることも可能なのではないか、ということ。そのような認識に基づいて作られる写真において、色は決して装置まかせの成り行き、ということはあり得ない。たとえばある色が強調されて描写されるようなことを不自然と言うことはできない。なぜならわれわれは広角レンズの歪んだ画像をすら積極的に許容しているのだから。
色についてストイックであることがプロフェッショナルであるというような物言いをどこかで読んだ。素人向けのデジタルカメラはぱっと見で鮮やかに撮れる方が売れるからそのようなセッティングになっていて、プロ向けのものは後でどのようにでも彩度のコントロールができるように破綻のない地味な色になっている云々。プロセス由来の理由としてはまったくその通りと思う。撮った画像がどう使われるのかわからない依頼仕事であれば、色を飽和させるようなカメラやセッティングで撮ることはあり得ない。しかしえてしてこれが曲解されるのだ。理由がどこかに吹っ飛んで、結果だけが独り歩きするのだ。素人はど派手な色で、プロは渋い色。この二分法で言ったらわたしはもちろん素人だ。依頼仕事で写真を撮ることなど、少なくとも現在では全くないし、その気ももちろんない。それはどうでもいい。とにかく結果的に派生してしまうこういう類のストイシズムは日本文化お得意の「○○道」に収れんすることが多い。東洋的な極彩色を覆い隠すワビサビの渋い色ということか。


