対象の選択は無意識的な制御の下にある

1998/09/09 Gifu

「撮影者」の役割というのは本人が自覚的であろうがなかろうが、鑑賞者の目の延長であることに終始するのであって、これはネットワーク上で写真画像が流通するようになった現在においても、いささかも変化していない。いやむしろ「撮影者」の対象事物の取捨選択という行為こそが、撮影行為の根幹であることがいよいよ明確になった観すらある。ロボットカメラの画像が初め面白く、やがてつまらなく見えてくるのを考えてみればよい。ロボットカメラが鑑賞者の目の延長であるように見えるのは、その機械的システム的な構造のみなのである。撮影者の主観が操作していると思われている対象事物の取捨選択という行為は、実は恣意的な自由意志によってなされているわけではなく、大げさに言えば時代の要請、小さく言えば鑑賞者と撮影者の興味の一致、そういった無意識的な制御の下にあるのではないか。そんなことをしきりに考えているのは、5月に始めたデジタルカメラを使ってひたすら水門の姿を撮っては載せるというプロジェクトが、様々なフィードバックを得るようになってきたためでもある。水門プロジェクトは、どうも単なる趣味的な余興では終わらなくなってしまったようだ。

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