Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231

下のような文句(1998/12/25のアーティクル)を書いたまさに翌週、デジタル画像を紙にひたすらプリントしまくる羽目に陥った。ぎりぎりになったこんな時期に年賀状プリントしてたんだろって? 当たり(笑)。いや、年賀状もあったがそれだけではない。必要があってかつて印画紙にプリントした画像を、10月に買ってそのまま放ってあった(その間に新型まで出てしまった!)ALPS MD1300という昇華型のプリンタで出力させられていたのである。結論から言うとプリントはとても美しく、その点について全然不満はない。このような精密な機械を廉価で大量に作ることのできるこの国の技術力は、これはもう大変なものであると全面的に感心するより他ない。ではプリントしながら何を考えていたか、というと、これはやはり紙にすることの必然性、みたいなものが、自分の中ではやはりどんどん揺らいでいて、できることならプリントせずに済ませたい、みたいな気持ちが余計に大きくなってしまっている。銀塩写真は紙に焼くことに必然性があった。特にネガであれば焼いてみないことには自分が撮った画像を見ることもできないのである。デジタルは大抵、撮った直後から液晶上でその画像を見ている。プリントする場合でも、紙になる前にモニタ上でシミュレーション的に見ている。つまり画像の確認作業を何度も済ませてから紙に乗せることになる。些細な問題と思われているこの工程の違いは、実のところ最終画像の決定行為に対して、少なからぬ影響を与えているのではないだろうか。それはネガから本番プリントする際に、ベタ焼きの時の調子にどうしても引っ張られてしまうことからも予想できた。その画像のファースト・インプレッションはとても強くその後の作業を支配してしまうのである。明らかにイメージの「刷り込み」現象というものが存在する。だとしたらデジタルカメラを直結することのできるプリンタを使えば、銀塩に近い感覚で作業ができるようになるのかもしれない。コンピュータ上に一度上げてからプリントする行為は、むしろ印刷の領域にあるのだろう。そうなるとやはり少なくともデジタルで撮った画像を写真のコア(そんなものがあるのかどうかは簡単に決めつけられないだろうが)のまま、つまり純度の高い状態で見てもらうにはモニタ上で見てもらうことがいちばん良い方法である、ということが考えられるのである。年の暮れだというのにこんなことをぐだぐだと考えて過ごしている。


