Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231
●ふと思い付いて、部屋でコンピュータに向かっている自分を4×5インチのピンホールカメラで撮影してみることにした。ポラロイドの#59で1時間ほど開けっぱなし。で今、現像してみた。やはりモニタが一番目立つ。キーボードやら引伸機やらディスクマンやらいろんなものは写っているが、本人が写っていない。わたしはこの1時間、確かにここに座っていた。でも写真には写っていない。わたしはどこへ行ったのだ?どこへ消えたのだ?ひょっとしてわたしは初めから存在していないのだろうか。だとしたらこの文を打っているわたしとは一体なになのだ?この現像ムラと区別のつかない、ほんのわずかな黒いもやもやしたものがわたしの実体なのか?普段「こんなものは虚像に過ぎない」と言って半ば蔑んでいるコンピュータのモニタ上の像がちゃんと写って、これこそが本質的、根源的と信じて疑わない自分の身体が写らないとは………。ピンホールというのは何という恐るべき装置なのだろうか。

これを撮る前、8年前まで住んでいた街の地図を見ていて不思議な気分に陥っていた。この地図上の様々な要素、建物や道路はたぶん、ほとんどが現時点でも存在するはずだ。では何故、わたしは今そこに居ることができないのか?地図からたどる街のディテールはわたしの中で確かに実感としてある。しかしわたしはそこにはいない。この街を歩いていたわたしはどこへ行ったのか。もういないのだとしたら、現時点でのこのわたしは当時のわたしと同じ存在なのだろうか。もしそうでないのだとしたら、自分の存在のこの連続感覚(8年前の自分と今の自分が同じであるという確信)は単なるまやかしに過ぎないのだろうか。


