どういうわけだか年が変わった瞬間から脳みそのOS変わっちゃったらしくって、水門LOVEになってしまった。いや戻ってしまった。以前水門LOVEだったのがだいたい1998年、それと2002年なんで、見事に4年周期だよね。ワールドカップだ(笑)。
放置に近い状態だった水門サイト(Floodgates)の方も大改装はするし、新年早々ニューな水門の撮影には出かけるしコラムは書くし。自分でもどうなっちゃったんだあたしは、って思うくらいLOVELOVEだ。ほんとどうなってんのだろう。脳内に水門タイマーでも入ってるのだろうか。年明けとともに扉が開いたのだろうか。
で、ネットをいろいろ見て回って思ったのだけど、ネットの中の水門情報ってものすごく増えている。話題としても、画像としても。8年前とはもちろんのこと、4年前とも隔世の感がある。世の中の水門の数は4年間であんまり増えたり減ったりしてないと思うので、単純に世の人々の意識が水門に向くようになったということだ。日本の国民のみなさんは21世紀に入り、そういう存在が気になり始めたということだ。それはよい兆候だと思っている。
水門というのは、おそらく「ネタもの」と「シリアスもの」の中間地点に位置している珍しい存在なのだ。ネタものの例としてはガスタンク。シリアスものの代表としては給水塔。どっちも似たようなもんだけど受け取られ方はだいぶ違う。それはメディア上で世に晒され注目されるようになったときの、ちょっとした味付けの違いがカテゴリーの違い、見る態度の違いとなって定着してしまうためだ。ガスタンクは今やウェブのネタもの界のカリスマ的存在になってしまっている林雄司さんが97年に始めた「ガスタンク2001」というサイトによって見方が決まってしまった。一方の給水塔はドイツのベルントさんヒラさんのベッヒャーご夫妻が60年代からきまじめにハイクオリティなモノクロ写真で撮りだめしたせいで見方が決まってしまった。別に逆でもよかったわけだ。でも一度確定してしまった見方ってなかなか変わらない。
で、われらが水門はというと、どうもその両方の側面をそなえてしまったように思われる。というと聞こえはいいが、単にわたしの態度に一貫性がまったくなくて、98年に水門サイトを立ち上げたときから、あるいはもっと前に水門の撮影を始めてから、そのときそのときの気分によってシリアスに接したりおバカに接したりしてきたせいで、どっちつかずの性格になっちまったようだ。ほんとごめん>水門。
他人の目に映る自分と自分が思い描く自分というのは絶対に一致しないものだけど、そのギャップをうまくあやつったものが勝ちなんだわな。何に勝つのかよくわかんないけど。とにかく今年はjsato.orgよりFloodgatesの方に力が入りそうなので、もしわたしがjsato.orgにいなかったら、Floodgatesの方を覗いてみてください。