何日か前(2009年8月31日)の日経の夕刊社会面に載ってた記事、脱官僚を掲げる民主党政権についての各省の反応という話の中で、国交省河川局幹部の人が、「・・・民主党は治水事業に詳しくない議員も多く、むちゃを言われないか」と困惑しているとあった。
んもう、そういうことをうっかり言うから、痛くもない腹を探られるというか、逆に勘ぐられるんじゃないか、と思ったのだが、考えてみたら今後大変になるぞというのは、今まで自民党議員に対してはさほど苦労なく予算が通っていた、とも取れるので、語るに落ちているとも言える。なにより国民が選んでしまった人たちが治水に詳しくないと言うことは、国民の大多数が治水に関心がないということであって、それって今までぜんぜん「説明」が足りてないってことじゃないか、という結論以外にはどこにも到達しない。
わたしなどに偉そうに言われて迷惑かもしれないが、治水事業というのは、がんばってゼロになる仕事である。やらなければ大雨がくるたびに水びたし。治水をやってようやく、いつでも乾いた状態(ゼロ)を維持できる。そういう仕事を正当に評価するのって難しい。人は平時(ゼロ)にあって、災害時(マイナス)を忘れてしまうからだ。あのダムが、あの水門があったから今回の台風でも水が出なかった、とずっと思い続けることは難しいのだ。
治水の仕事をされているみなさんが大きなプライドを持って仕事をされていることについては、常に敬服しているし、あこがれすら感じる。日夜がんばって水を制御しているんだぞ、みたいなことは声高に喧伝するものではない、というようなダンディズムというか、男は黙って仕事する、みたいな価値観があるのではと思うが、その結果として国民の理解不足という構造を築いてしまったのであれば、ダンディなままでいいとは思えない。治水はやらんでいい、とまでは行かないにしても、無駄みたいだからとにかく何でも減らす、みたいな別次元の論理で予算カットされるようになる。というか、すでにそうなりかけているではないか。
水門サイトを11年前に立ち上げたときに書いた、自分のスタンスというのをひさしぶりに思い返してみた。
撮影に際して、水門の技術的あるいは社会的な価値の判断はしないことにしています。すべての水門の存在を無条件で支持するつもりはありませんが、河川行政一般や特定の水門の存在に対して、直接に批判意見を述べ立てるのはおそらく写真家の仕事ではないでしょう(たまには文句言うかもしれませんが)。冷静な思考のための検討材料となるような画像を収集し、広く提示するだけです。あなたがこのページを見て水門に関心を持って、直接あなた自身の目で水門を見に出かけてくれれば、それでいいのです。
何だよ、実はおまえもダンディ的じゃんとか言われそうだ。当時は、とにかくまず、何か文句言うなら現場を見てからにしな、ということが言いたかったらしい。まあそれさておき、これを書いた11年前に比べて、河川構造物について、あるいは治水についての世の関心は多少なりとも変化したのだろうかというと、これがよくわからない。そういうものが好きなマニアがいるらしいぞ、ということが知られただけかもしれない。
政権が交代していろいろと風通しがよくなることもあるだろうし、効率の低下で山ほど問題が出てくることも予想される。それ自体は悪いことじゃない。変化が刺激となっていろいろなことが活性化することは歓迎されるべき事態だろう。しかし心配なのは、治水の知識がないけどやたらと声高に騒ぎ立てるのが好きな人たちが、尻馬に乗って再びピントのずれたキャンペーンを起こさないだろうか、ということだ。そういやこのことについても11年前に書いたっけ。
まとめます。治水事業は、もっと広く深く知らせる必要があると思う。だからといって間違っても新聞の一面広告なんて大時代なことはやらないでね。今やったら逆効果どころの騒ぎではないし、だいたい新聞読んでない人も多くなってるし。
これまで一般向けの情報公開・説明コンテンツは子供向けのものが主体であったけど、大人向けも重視することは考えてほしい。そのことに関して言うと、マニアをあなどったらダメですよ。マニアは単なる特殊な嗜好の人たちではなく、価値生成装置、あるいは価値変換装置ともいうべき存在と考えるといいと思う。これってマニアの純粋性を利用せよみたいな、ちょっといやな書き方だけど、あえて書いた。マニアの側も、もちろん単に純粋であるだけではいかんと思う。口に出すにせよ出さないにせよ、マニア(鑑賞者)も立場を自覚し、各自の戦略が必要だと思っている。
本当に必要かどうか深いレベルで理解している人が、一人でも増えることこそが重要だよね。
コメント
10年近く道路系の職場で過ごしましたが、事情はjsatoさんがおっしゃる治水系とほとんど同じように思います。私の実感からすると、土木の方々はとても素直で謙虚で自分を飾ることを嫌う傾向があります。おおらかでいい人たちばかりなのですが、なにせ自己アピールが苦手。世間からは叩かれまくってるのに、うまい言い訳もできない。というか、理解されたいという気持ちもすっかり萎えてる。道路特定財源の問題でも、過剰に反応して殻に閉じこもるようになっちゃったし。自分で自分の首を絞めてる感じがして、なんとも歯がゆい気持ちです。
あ、例えば首都高が大橋ジャンクションで試みている広報戦略なんかは、注目に値すると思います。タモリ倶楽部での紹介とか、ブロガー限定見学会とか。理解の入り口は、すごい!とか、かっこいい!とかで十分ですもんね。
>国民の大多数が治水に関心がないということであって、それって今までぜんぜん「説明」が足りてないってことじゃないか、という結論以外にはどこにも到達しない。
ここは齟齬が出やすいものだと思うんですよね。
私が小学校のころにすんでいたところは、近所に毎年水がつくとか、流れるのを前提にした橋(流れ橋)があるところでしたが、そういうところでは「説明」を行なっていても、地域の人の興味は高くなる。所がこれが治水が工事の成果(やその他の間接的な環境変化)でよくなると同じ説明をしても、「説明」を受け取る側の問題意識以前に問題受容の当事者感覚の低下で議論をパスする傾向、「過去の課題を引きつる古い政治家」という認識になる。
説明をすればするほど受容側の感覚が減衰するということから、対応して説明のための活動をする(ビラの配布や説明施設の維持)事をすればするほど「無駄使い」ということで排除する側面がある。ここで現場の担当者が取る「萎えた」態度を従来の職業倫理では責任力の欠如と解くのが一般的です。しかし実際には逃散行為の一種(いわゆる医療倫理における『立ち去り型サボタージュ』)がおきていて、この説明ができないのが医療においては目立っているが、じつは治水(交通)などのインフラ整備の現場でもあることを、考えるべきでしょうか。
乱文乱筆失礼いたします。
治水は100年、いや下手すりゃ1000年スパンの仕事なので、当事者のみなさんも超然とされているのだろうと思ってました。いろいろと叩かれたり誤解されてたりするのを見るとつい、外野から声援を送りたくもなるけど、それとて長い目で見ればちょっとした価値の凹凸=ノイズに過ぎないのかもしれない。
もちろん、たとえそうであったとしても、ポジティブに話題化する努力が必要な時代だと思う。hachimさんのご指摘の通り、首都高のみなさんの最近の取組みは拍手ものと思ってます。少なくとも都市部のインフラでは、こういう広報戦略が力を発揮することを実証しちゃった。道路と河川では身近に感じる度合いが違うので、そのまま同じ手法が使えるわけではないけど、一般へのアピールの方法としてわかりやすい先例となった。
首都高のとりわけ凄いところは、広報活動に「個人が見えた」ってことなんですよね。あの「首都高の須長です。」ってはじまるエントリが、実はすごく画期的なんじゃないかと。
難しい事はわかりませんが、治水されて道路や鉄道でネットワークが結びついて街や都市が形成されている訳だと思います。
だから、河川の治水施設や橋が都市を形作っており、守られている。僕はその治水施設や橋をその場所に作ろうと考えた人の目線でその場所へ行ってみたいと思うのです。
そうそう!その場所に「行って」「見る」ということがとっても大切だと思ってます。マニア(鑑賞者)の活動って、還元的に見ればこの呼びかけのひたすらなる反復なのかも。
脱線話ですいません。
このエントリーを読んで、数年前にjsatoさんが言ってたセリフを思い出しました。
「メールやインターネットが普通に使えるることが普通と思われてる」
そのときの結論は
「ありがたみを知ってもらうためにわざとサーバ落としてみようか?」
でした(笑)