ちょっと書いておきます

【1】記憶、というのは、その時の情緒がそれ以来ずっと参照されたがために保存されている、という説を読んだ。つまり「忘れられないような凄い場面に出会った」から記憶されるのではなくて、ある場面に立ち会ったその時に抱いた情緒をその後、何度も何度も自分が意識内で反芻するために、結果的に「記憶」として保持されているのである、ということだ。記憶という概念のコペルニクス的転回で面白い。なるほどこれだとみんなが見ているのに何故か自分だけが覚えている、あるいはその逆の場合のような現象の説明が容易である。
【2】古い友人からメールをもらって、おまえの日記を読むと思考パターンや興味が昔とあまり変わってないよと指摘されてなるほどそうかもしれないと思った。大切な友人である彼とよく話し込んだのは15年ほど前の大学時代の話で、ここ10年来ほとんど会って話す機会がない。だからこの10年以上の間、わたしの思考は大した変化を遂げていない、ということになる。余計な枝葉はいっぱいついたのかもしれないけど、根や幹は変わりようがない(もちろん花も咲いてなければ当然、実もまだ成っていない)。根や幹の構造はたぶん10代の前半で決定的になってしまっていたはずだ。その頃に何をやっていたのかでそやつの指向性はほぼ決定してしまうのだな。しかし中学生の頃いっしょになってギターをかき鳴らしてビートルズなぞ歌っていた連中が、医者やらプラントエンジニアやら、立派な社会の人になってるのに、わたしは何だか道をそれたようなことをしていられるのはちと不思議だ。ひとりだけまだ頭が10代前半のストロベリーフィールズ状態に取り残されてあるのかもしれん。
【3】Web空間上をあっちこっちさまよっていると、何かの拍子でアブノーマルなエロ系のページに寄り道してしまい、結構面白がって見てしまったりする。特にこの半年間はもの凄い増え方だ。しかもそれぞれのページのカウンタを見ると驚くような数字が並んでいる。つまりわたしのように高みの見物をしている御仁が少なからずいるということなのだな(笑)。面白半分でやってるページから真摯に自己の欲求に忠実たらんとするページまで様々であるが、大方のページの主はそれぞれに切実である。それは認めたい。ケチを付ける気は毛頭ない。ジャンルによってはわたしも参入したいぐらいだ(ははは)。しかし最大限譲歩したところで、最近の傾向には何か今一つ、納得できないものがある。考えが整理されていないのだが、それはおそらく現実社会とネットワーク上での疑似社会との乖離が、こんな形でどんどん進行していくと、結局人間にとってしんどい世の中になるのではないのかな、という漠然とした予感によるものだ。ネットワーク上のコミュニティが恣意的な快感原則で一方的に突っ走り、現実社会が何も変わらないとしたら、事態は今より余計悪くなるのだ。そのシチュエーションで引き裂かれるのはそれぞれの個人である。つまりネットワーク上のアクションはあくまで現実社会とリンクしたものでなければかえってマイナスの力となりかねないのだ。

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