『狐のだんぶくろ』

キットラーの後にレジス・ドブレの論文なんか読んでると何だか人生がつまらなくなってくる。ここらでまた澁澤路線に逆戻り、だな(笑)。

人一倍記憶力がよかったらしい澁澤龍彦が少年時代を回想する本。何を書くかを定めぬままに書き始められた文章。どんどん車線を変更し、しまいには道を飛び出して川へ飛び込んだかと思うとそのまま海まで流されちまえ、というような印象の、軽やかな文章だ。昭和初期を語ろうといういちおうの縛りはある。内容のおもしろさは抜群で一気に読んでしまった。ほほ笑ましいエピソードなどはわたしがここで紹介しても仕方がないので、不思議にひっかかるポイントだけ記しておく。

「花電車のことなど」と題された篇では、花電車のこと→電車の運転手になりたい→野球選手になりたい→ラジオの実況放送→故障したらラジオを殴る、というように話が展開したところで、突然、連載当時(昭和57年ごろ)起きた中学生による浮浪者暴行事件の話に飛ぶ(ここまで極端に話が吹っ飛びまくるというのは意図的にそれをやっている証拠だろう)。そこで澁澤は暴行中学生を「なんという弱く育った連中だろう」と憐れむ。そして唐突に映画「E・T」を見て涙をこぼす中学生も同じメンタリティを持っていると指摘し、「両者とも強さを美徳とする風潮が完全に失われてしまった世の中に育った、あわれな子どもたちの短絡的な反応」だという。澁澤がこういう主張をしていた、というのは驚きである。さらに彼はここで「強さへの指向がなければ、弱者に対する思いやりも失われるのだということを、私はここで特に強調しておきたい」とまで書いているのである。

澁澤がこんな主張をすることが不自然かどうかについて、通りすがり的一読者にすぎないわたしの論ずるところではもちろんない。だから驚きつつもそっくりそのまま、額面通り受け取ってみようと思う。強さを指向することの必要性、だ(おおお、すでに一般化し過ぎているぞ)。パワーで押すタイプの物書きが書けばこんなお題は素通りしてしまうものだ。いや、そういう立場の人間は強さへの指向を言外に行っているから、主張として言葉になることはない。強さへの指向は、強さに価値を置かないように見える人物から発せられた時こそ、力を持つのかもしれないな。

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