Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027
連休は4年生の卒業制作中間審査でつぶれた。およそ100人の4年生のうち60人ほどのプレゼンテーションを2日間かけて聞いて、その都度コメントした。美術大学の中でも最近できたばかりの学科なので、学生の取り組む作品のジャンルはかなり多様だ。研究論文から一発芸に近いものまで、それなりに反応しながらほめたり、ダメ出ししたりするのは実に消耗する。何だか「意味を出せ、効果を考えろ」というようなコメントばかりをしきりにわめいていたような気がする。この時期、学生たちが持ってくるプランの多くは、まだ意味が希薄だ。手すさびで何となく見られるようなものを作ってしまえる連中がゴロゴロいるわけで、ぱっと見で何となく見栄えのするもの、単に小洒落たもの、というようなレベルのプランは切って捨てなければいけない。卒業制作という、考えてみると不思議なステージでは、とにかく明確な意味が求められるのだ。
その一方で、自分の写真作品では意味への抗いを続けているのであって、考えるまでもなくこれはかなり皮肉な構図と言わざるを得ない。このところずっと、イメージに濃厚にまとわりつく意味を排除したいと思っている。イメージに寄生する視線の意味、場所の意味、指示対象の意味、様式的な意味、そういったありとあらゆる意味をできる限り削り落ちていくように配慮をし、イメージそのものが「べかっ」と現れ、それに撮った自分が驚くこと。単に無意味っぽい対象が並んでいるのでもなく、意味のある対象を無意味めかした態度で撮るのでもない。かなり重い存在が、しかし意味の一糸すらまとわぬ状態で、ただ現れること。何だか言葉にすればもどかしいばかりだがそんなことが起きるのを期待して、撮る。
意味があるのかないのか、どうやらその点に過敏になっているらしい。本当の意味のなさは、意味があるかないか、そんなことを問題にしないところにあるということは感づいている。だから意味の剥奪を狙うことは逆説的に意味の強化に加担しているということになりかねない。意味を忌避する作品の意味、というようにメタレベルでの意味も発生してしまう。それでもやはり、イメージにおける意味は蹂躙されなければならない。意味を帯びたイメージは、単にその意味に奉仕するだけのものだから。意味のないイメージは何にも役立たず、イメージがあることそれだけに奉仕することになるから。そう、何の役にも立たないイメージを目指さなければいけない、ということなのだ。

