Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027

夏休み。
引越が済んで2か月にもなるのに、自分の部屋にいまだに段ボールがごろごろしているという情けないありさま。3回の引越の間そのままだった、15年ものの開かずの段ボールを開けたらバイク用のヘルメットも出てきた。少しずつ過去のいろいろなものと対峙するのは、面白いのだけど、やはりちょっと気持ち悪い。自作のピンホールカメラなんかも出てきたので、あちこち動かしてみる。8×10、4×5とも意外にしっかりしててまだ使えそうだ。でも当分使わないだろうと思う。レトロものは爺になってからでも間に合うのだ。
このところの流行なのか、あちこちでピンホール写真の話を耳にする。科学ゴコロをくすぐる楽しい実験、工作としてのピンホール写真というのなら大歓迎だ。実際、ピンホールでのような[穴=物質の非存在]という状態がもたらした画像に接すると、そのたびに不思議で不思議でもうどうしようもない気持ちになる。天体の運行に対して抱くような、とてつもない大きなシステムがあることへの畏怖のような気持ち、そんなものまでが湧いてくるのである。ピンホールカメラを前にすると、誰でも子供に戻ることができるらしい。
しかし今、この気持ちを不用意に写真家が作品の中に持ち込むことは注意が必要なのではないだろうか。曰く、ピンホールは写真の原点である。デジタルの出現によって混乱状態に陥った写真界において、原理主義としてのピンホール写真・・・ちょっと待ってほしい。
ピンホールは、「カメラ」の原点であることは間違いない。古代、壁の節穴によってできる倒立像を見た工夫好きの誰かが、それを小箱に囲い込んでカメラオブスキュラを作った。いつしかそれにレンズがついて像が明るくなり、感光材料に痕跡を残せるようになる。誰でも知っている写真機の歴史である。
ここで考えねばならないことは、ピンホールだけでは写真は生まれなかった、という点だ。19世紀の感光材料は感度が低く、レンズの明るさがなければ実用的に像を作り出すことができなかった。20世紀になり、写真感光材料は工業的に発達し、現像によって潜像を表出させることができるようになった。今、フィルムや印画紙にピンホールの画像を残せるのは、現代的な高感度の感材ができたためなのだ。つまり、ピンホール写真は、写真表現の歴史において「かなり新しい」ものだと言っていいだろう。エリック・レンナーの名著「Pinhole Photography: Rediscovering a Historic Technique」を読めば、ピンホール写真表現が欧米で一種独特な経緯で成立し、オルタナティブな表現として発達してきたことがわかる。
ピンホール写真が「写真の原点」であるというような物言いは、だから多分に心情的なものだ。デジタル=複雑で非人間的、ピンホール=単純で人間的。もしも本当に原点回帰を言うならば、自分自身の原点に戻るのが順当というものだろう。もちろんそれがピンホールカメラという人もいないわけではないだろうが、多くの写真家たちの強力な写真原体験は、レンズのついたカメラによるものだったはずなのだ。ピンホールの画像が面白く見えるようになるのは大人になってからの後知恵のようなものであり、ピンホール写真が価値を持つようになったのは、レンズによる画像が簡単に得られるようになった反作用にすぎないということを、今、冷静に考えてみたいと思う。

