痕跡の論理2

Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027

継ぎ目はシングルのアタマからきっかり60秒のところ、Let me take you down という歌詞のすぐあとにある。ただし、それを確かめる場合は覚悟しておくように・・・一旦その位置がわかったら、この曲は二度と同じようには聞こえなくなるだろう。

The Complete Beatles Recording Sessions / Mark Lewisohn・内田久美子訳

ビートルズの、というかジョン・レノンの名曲、「ストロベリーフィールズ・フォーエバー」は、別の日に録られた二つのバージョンを無理やりつなぎ合わせたものが完成形として発表されている。名プロデューサ、ジョージ・マーティンとこれまた名エンジニアのジェフ・エマリックによるそのつなぎ合わせは、1966年という時代にあってはとびきり巧妙であり、この部分でつなぎ合わされているのだ、という事実を知らなければ、現在の再生装置を持ってしても全く気が付くことはない。しかし、一度それを知ってしまうと、その後は確かにそう聞こえてしまう。その部分での音的な断絶を意識しないわけにはいかなくなってしまう。全く別のテイクがあるポイントで接合されていることが、かなりの突出感を持って聞くたびに耳に迫ってくる。「知ってしまう」ことによって、ある曲を以前と同じようにフラットなものとして受容することができなくなってしまうということが、それこそ確かにあるのだ。

大嶋浩の『痕跡の論理』を読んでこの方、そのエッセンスを何か言葉に置き換えようとして悶々としていた。独自の言葉でそれを成し遂げるのは難しく、だとすれば何か気の利いたアナロジーを据えるしかないだろうと思って浮上して来たのが以上のエピソードである。デジタル写真の登場は写真の歴史にとって、何らかの断絶を形成しているのか、という問題を語ることがこの本の核心となっていることを、今一度ここで確かめておきたい。

大嶋浩によると、「技術上の断絶の中に写真―静止画の連続性を、写真に対する考え方に切断を見いだしたい」とある。つまり銀塩写真からデジタル写真に至るその切り口は、単純ではないということだ。全く切れたものが見る部分によってつながっているように、あるいはやっぱり切れているように見えている、ということだ。そしてつながっているように見るか切れているように見るかは、多分に批評における政治性を帯びた問題として扱われているのだ。

デジタル写真を、技術的に断絶していることを理由に、銀塩写真と全面的に切り離し、隔離された状態で論じること。これがここしばらくの見方として大勢であった。飯沢耕太郎の言うデジグラフィという言辞がまさにそれに当たる。しかし大嶋によればデジグラフィなる切り離し方はあまりに素朴に過ぎるもので、銀塩からデジタルという流れはあくまでフォトグラフィそのものが継続しつつ、フォトグラフィに対する見方や考え方という面にこそはっきりした切れ目が走っているということになる。継続の上での切断。あるいは巧妙なつなぎ合わせ。

構造として別にアナロジカルでも何でもない。しかし大多数の耳には聞こえないが、接続点を示されれば誰でも、その後は明確な断絶となって聞こえてくるようなストロベリー・フィールズの60秒めの断絶は、デジタル写真のもたらす断絶と何か似たようなにおいがするのである。

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