Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027
一昨日は、とある写真公募展のグランプリ審査というのに出かけた。興味のある人は調べればわかることなので特に書かないが、審査員が観客を入れた中、公開で審査を行い、事前にノミネートされた10人の中からグランプリを選ぶという趣向のものである。わたしはその審査会も初めてならその公募展自体も、今まで行ったことがなかった。何でそんなものの見物に出かけたのかというと、わたしのゼミに所属していた学生のうちのふたりが、その10人の中に入ってしまったからである。わたしが写真を作品として発表し出したのは30歳を過ぎてからのことで、その当時はそんな公募展はなかったように思うし、あっても多分出さなかっただろう。写真なんてのは見せたい人間が好きなように見せて、見たいやつが好きなように見るだけでかまわないと思うような歳になってから写真作家を名乗るようになったからだろうが、とにかく公募展のごときものは今まで完全に無視してやってきた。しかし大学で教えるようになると、自分の学生にまで世に背をむけたようなポリシーを押し付けるわけにもいかない。だからまあ公募展の類には一応、出したほうがいいよねなんてなことをことあるごとに話していたのだ。
審査が始まるまでの待ち時間は、まるで授業参観かピアノの発表会に臨む親の気分である。子供を持たない自分にはそういうタイプのプレッシャーは免除されていると内心、喜んでいたのだが、思わぬところで待ち伏せをくらった感じがする。歳はとりたくないと逃げたところで、どこか見えないところでで確実にとらされているのだ。とにかく、審査員の先生方はうちのむすめたちにどんなコメントを投げてくるのだろうか心配になる。
基本的にボロクソ、だった。予想されたことだがデジタルの荒さを指摘する声が大半である。審査員のひとりが「ピントこれでいいと思ってんの?」みたいな突っ込みを入れてくる。おいおい。ここは写真基礎の授業じゃないんだよ。他の審査員がありがたくもフォローしてくれるものの、まだねちねち何か言っている。そこで立ち上がって「ピントピントってうるせえんだよ、このピントフェチ野郎が!」と怒鳴りたくなったが、そんなことをしたら本当に親バカである。ぐっとこらえると同時に何でピントが問題になるのか考え始めて、ようやく気をそらした。
長らくピンホール写真をやっていたわたしは、ピントに関して一家言あるのだ。ピンホール写真なんてオモチャだろと思っている人は、へなちょこピンホールで撮った心霊写真まがいの写真しか見たことがないのである。ギリギリまでチューニングされたピンホールによる画像がどれだけの鋭さを持っているのか、知らないのだ。レンズとは違った種類の鋭さといっていい。とにかくまずここでは、ピンホールにはピントという概念がない、とだけ書いておく。つまりへなちょこピンホールは近いところから遠いところまで、同じようにボケボケに写るし、チューニングされたピンホールは、近いところから遠いところまで、同じように(ピンホール的に)鋭く写る。だからどこか眼前の世界の一部分だけが浮き上がることはあり得ない。この特性をして、ピンホール写真は写真ではない、という言説もあるのだが、それはあまりにレンズ至上主義と言わざるを得ないだろう。人間の目がレンズでできていてどこか一部が浮かび上がって見えるからといって、写真装置が必ずしもアナロジカルな構造をしている必要はないと思う。だから写真においてピントは、皆が思っているほど絶対視されるべき要素ではない。単なる様式の問題にすぎない。
ピンホール写真の描く世界は、凝視と無縁のものだろう。対象に対峙しているようでいて、実はその手前の空気と対峙しているようなすっとぼけた、脱力した撮影行為によって得られるイメージは、意外にあなどれない。考えてみるとわたしは、いつからかこの「凝視の排除」をデジタルカメラを使ってやっていたような気がする。もちろんデジタルカメラはレンズがついているが、オートフォーカスはピントを合わせる行為を無意識の領域に蹴落としてしまう。それが彼女たちにも何となく伝わっていき、凝視のないイメージが生産され、それがこのたび公募展に出現し、審査員たちは面食らってしまったのだ。しまいには「これは、ほんとに写真なんでしょうかねえ」とまで言われる始末。何とでも言え。しかし、ちょっと考えてみればわかることだが、凝視のなさというのはある意味、装置によって得られるイメージの究極の姿なのだ。それはどれだけフラットに見えたとしても、やはりどこかに撮影者の痕跡が刻み込まれる。既存の写真美学のコンテクストではつかみ取れないイメージに果敢に立ち向かって行くことは喜ばしい仕事だと思うのだが。


