Vintage article series: CAXAPOB 20030111 – 20030923
「そのような場で生成される画像は、もはや現実の描写という写真画像に負わされた義務を果たさなくともよいかもしれない。そこにおいて画像は現実の描写でなく、ある種の現実そのものに変化する。現実を再現する画像にリアリティが発生することよりも、リアリティそのものとなる画像が存在することが重要なのだ。」このサイトの全体に対するステートメントにこのように書いてあった。自分で書いておいて、すっかり忘れていた。これを書いた当時の思考がちょっと思い出せないのだが、何だかひどく誠実なことを書いたものだという気がしてきた。イメージは現実の再現としてのリアリティを発生させるのではなく、イメージそのものがそれだけでリアリティである(にすぎない)。そこには現実の再現的描写などどこにもない。どこまでも誠実である。ウェブアートとしての写真、と銘打ってあるのだが、別にWebに限ったことではない。この性質はテクノ画像の本性そのものであろう。デジタルやWebでその性質が加速し、一気に発現しやすくなった。このことを自覚的に理解しているひと、直感で理解するひとだけが逆さ画像を落ち着いて眺めることができるのではないか。酷な話だが、逆さ画像はある種の「踏み絵」になってしまうのだ。写真が認識の対象の再現であると信じ込んでいるひとは、逆さ画像に耐えられず、上下を重力方向と一致させようと画策する。ひっくり返すのは紙であれば簡単だ。モニタをひっくり返す猛者すらいることがわかった。しかしテクノ画像の本質を知っているひとは、少しも動揺せずにあるがままを受け止めることができるのだろう。大嶋浩は1月27日付けのDのための、未来のための、いくつかの断片 (http://www.ap-d.net/cgi-bin/andiary/showdiary.cgi) において、「もはやわれわれは、イメージを見るのではなく、聞いているのだ」と言っている。この場合の見ることは再現されるかもしれない現実との比較を含んだ見る、であり、聞く、とは環境が提供しイメージとして記録された視覚情報をただ摂取するだけの見る、であるのではないか。イデオロギーやコマーシャリズムなど、放っておけばすぐにでもイメージにまとわりついてくるあらゆる付加的な目的性からイメージの独立を維持するために、今われわれはイメージを見るのではなく、聞かなければならない。しかも誠実に。

