写真表現は性質の違うふたつの行為によって成り立っている。ひとつは「型(かた)」や「文法」を重視し、ある枠の中で洗練を競う行為。もう一つは、型から離れ、既存の文法を破壊する行為だ。表現一般で考えると、前者は単に後者に至る練習段階のように思われるかもしれない。確かにそういう面はある。それは型から入って型を超える、みたいな前後関係でとらえられる行為だ。しかし、日常レベルにおいてすら「うまい写真」といったような、あるいは写真表現の場においては「写真らしい写真」のような評価の文言があることを考えれば、何かある種の「らしさ」が幅をきかせ、規範性が濃厚に満ちているのが写真表現の特質のひとつなのではないかと勘ぐりたくもなる。
問題は写真において、何もしていないように見える写真、の欺瞞なのだと思う。何の奇も衒わず、ストレートに正面から堂々と撮られた写真、というものが持つ正当性の幻想。確かに個人の写真家の表現歴を考えても、初期の自由奔放ないわゆる「主観まみれの」表現から、徐々にに意図を隠してあたかも托鉢僧のごとき直立不動の姿勢で撮ったかに見える「客観的な」表現に至って尊敬を集める、というような道筋はおおいに正しそうだ。あるいは大型カメラで水平垂直に気を使い、アオリを駆使して画面全部にフォーカスが回っている写真を見せられると、何か居住まいを正されるような気分になるが、その感覚とは一体何なのだろうか。
現代において、われわれが上に挙げたような客観的なスタイルに対して抱く感覚は、おそらくは絵画に対するコンプレックスが複雑に醸成されたものなのではないか。客観主義スタイルといえば、これはもともと古典的な絵画のスタイルである。古典的な絵画においては水平垂直は厳守され、フレーミングは理性的であり、アングルも一般的な視覚からの逸脱は許されない(教会の天井画などは除くことは言うまでもない)。写真の発明によってそれらは一度打ち砕かれた。絵画の機能が変わり、客観主義が無意味になる。客観主義はそっくり写真に受け継がれ、写真はその後それを受け継ぐメディアがない段階で、早くも機能を分化させてしまった。だから今の写真というのは、まるで古典絵画と現代絵画が入り交じったような、機能的に錯綜した状態なのだ。そして写真を写真のために使う現代写真表現において、客観主義はこの何十年間の主流のひとつになっている。古典絵画が失った機能は、その機能とスタイルが分離し、スタイルだけが現代写真に入り込んでいる。そう考えると90年代のドイツ写真などは古典絵画の亡霊が取り憑いているようなものだ。
カメラが見た画像、を無理やり人間の側に引き戻し、人間の日常的な視覚に従属させること。これが客観主義スタイルのやっていることであろう。この行為には新たな展開が考えにくい。つまりどこまで行ってもひとつの形式の中に視覚を押し込めるだけであって、「写真らしい写真」を無限に再生産するだけだ。少なくともわたしはその行為に面白さを感じなくなっている。
カメラが産出することのできる画像に制限を加えないこと。
人間の日常的な視覚を写真の絶対規範としないこと。
既存の文法に乗っ取って意図が他者に伝わることの心地よさに抵抗すること。
そして客観の反対は、必ずしも主観ではないということ。