Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231

ピクセル、について考えている。研究社新英和中辞典第6版(電子辞典) によれば、その意味は
pix・el
━《名》[C] 【電算】 画素, ピクセル (スクリーン上の画像の最小単位).
となっていて、残念ながら解釈の遊びをするような余地はどこにもない。そのものズバリ、電算画像の最小単位点ということだけだ。デジタル技術上のフィールドに乗っかった写真表現を、従来のケミカルな、いわゆる銀塩写真のそれと比較する場合、従来型の立場は銀や色素の粒子の細密さを持ち出すことになる。それに対してデジタル側はプリンタの解像度、つまり1インチの間に何個の点を打つことが出来るかを表した数字などを持ち出してくるだろう。この対比は実のところそれほど従来型とデジタル型の違いを浮き彫りにしているわけではない。問題はそのあたりにあるのではない●デジタル側が画像のデータ、すなわちピクセルとその並びというものを写真を成立させる上位の構造として保持していることこそが問題なのである。デジタル型写真には、写真の上にあってその内容を決定している、メタ写真なるものがある、ということだ。そのメタ写真を記録するコンパクトフラッシュやスマートメディアといった小型メモリー装置を、デジタルフィルムと呼んだとしても懐古趣味的なアナロジーに終わってしまって何だかしっくりこない気がするのは、やはりデジタル型は写真と言っても従来型写真と別なものであるということを頭のどこかで認めているからだろうか●1152 x 864ピクセルでも640 x 480ピクセルでもいい、デジタルカメラで得られた画像をどんどん縮小していくとする。Photoshopでも何でもいいが、画像を縮小できるソフトである必要がある。32 x 24ピクセルまで縮小しても、何が写っているかは何となくわかる。プレビューやサムネイルというアイコンの領域だ。それを通り過ぎて4 x 3とか二ケタ代のピクセル数にするといよいよ元の画像の印象は姿を消して、平均化された色、だけの世界となる。最後に比率が保てなくなるが1 x 1にしてみる。元の画像が真っ赤なバラのクローズアップ、とかいうのでない限り、そのこれ以上平均化できない最後の1ピクセルは、大抵がグレーである。平均化され尽くして熱死状態のグレーである●画像における美しさ、というのはデータの特異な偏り/バラつき加減のバリエーションにすぎない、ということを痛切に感じてしまう。そんなの悪しき還元主義じゃないか、という指摘もあるだろうが、主義や価値観の向こう側に冷たく存在する数字の山、それに感情すら委ねている(分かりやすい例として電話を考えればよい。どんなにクラシックな電話機からかけたところで、交換機はすでに100%デジタル化されて数字で動いている)のが現代社会に生きている、ということなのであって、無人島で原始生活でもしないかぎり、どんなにアンチデジタルを唱えたところでその網から完全に抜け落ちることは不可能に近い●その数字の一粒を可視化したものがピクセルということになるだろう。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
