Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231

急遽、今月の下旬から来月あたまにかけて展覧をやることが決まったので、先々月来さんざん無意味だとか書いてきたデジタルカメラの画像のプリントをやってみることにした。予定では約100枚だがいまのところまだ20枚ほどしか上がっていない。先ごろドイツに送ったポートフォリオの時は、A4ペーパー1枚に最低でも2イメージ入れて出力したのだが、今度の展覧用としてはA4に1イメージずつで、すなわち引伸しをしなければならないことになる。1152 x 864ピクセルの元データを2304 x 1728にリサンプリングして300dpiにすると、長辺が19センチぐらいになる。寄って見るとやはり汚いが、離れて見ると彩度は従来の銀塩方式のプリント以上のものがある。しかしまあ、単体のプリントとしてはやはりつまらない。やはりどう考えてもCRTモニタ上で見たほうがよい●去年3月の個展の時もその前の時もさんざん考えたのだが、写真の展覧とは一体、何なのだろう。特に今日的なそれは100年前の写真展覧とは100%に近い意味の相違があるはずだ。ただイメージをイメージとして見てもらうのであれば、Webを待つまでもなく印刷メディアの時代にそちら側の間接メディアへ、とっくに優位は移っているのだ●古典印画技法に入れ込んでいた頃は、写真が直接間接メディアを兼ねていた時代のプリントにまとわりついていた、いわゆるアウラのようなものを今日に再現したかった。古典印画はイメージが物質とどれだけ貫入関係にあるかどうか、その度合が高いほどアウラらしきものが現れたような気がしたものだ。去年3月の個展は普通の印画紙にしたが、これとて画像と物質との結合の意識は継承された。印画紙へのフェティッシュな感覚は、一般の人はあまり持ち合わせていないものだろうが、写真に関っている多くの人々は否定的であれ肯定的であれ、必ず持っているものだ。去年3月のわたしの場合、オーバーマットをやめて2枚のガラスに挟んだ状態でフレーミングしたり、大伸ばしの上下をアルミ材で挟み込んでワイヤーで吊ってみたりした。どちらもプリントの物質性を強調しないことには、展覧の意味が自分でも納得できなかったためである。しかし、今度はいよいよそれもできない段階からスタートしなければならない。プリンターの出力紙は、それがたとえ写真印画紙より高価であってもいまのところフェティッシュな感覚の対象とはなり得ていない(それがむしろノーマルな状態であることは冷静に考えればすぐに思い当たる)。ではどうすれば展覧の意味を発生させることができるのだろうか●おそらく今度は、プリントが紙に過ぎない、という同じことをフェティッシュの反対側から言うしか方法はないだろう。プリントを比較的ぞんざいに扱うこと。つまり1点1点のプリントにタブロー的付加処理を一切施さない。そうなると線的な関係を持ったフレームの1次元的な連続配置のような構成は弱々しい。だからランダムな面的集合体としての大量のプリント群、というスタイルが自ずと立ち現れてくることになる。特に大量のプリントを同じ面に一度に提示できるのは、Web展覧と比較した場合に現物展覧の最大の優位点となるであろう。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
