Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027
前回最後に、表層と書いたのがずっと気になっている。表層って何だろう。
たとえば写真、これはまったくもって表層性のみで成立する現象で、そのあらわれに物理的な深みを意識した途端に、イメージはプリントという物質の側に堕ちていく。支持体という名の仲介者に母屋を乗っ取られてしまう。イメージの高みを維持するには、限りなく薄い表層性をひたすら維持しなければならない。
さて、引っ越しに向けて部屋中のガラクタとの格闘が続いているのだが、面白い物が発掘されることがあってなかなか仕事がはかどらない。中でもちょっと考えて込んでしまったのが、感熱紙という物だ。普通紙ファックスにしてから家では使わなくなっていたのだが、それ以前の機種を使っていた3、4年前のファックスの受信紙が何枚か、ダイレクトメールやら何やらの未整理の郵便物の束の中から出てきた。この陽の差さない部屋でも、3年も経った感熱紙上の印字は見事に薄くなっていて、内容はほとんど読めなくなっている。普通に考えたらこのような保存性の無さはデメリットということになる。しかし、しっかりした印刷による大量の無意味な情報の中にあって、結構面白い個人的なやり取りが消えかかっているという現象を目の当たりにすると、複雑な気持ちになる。どちらかというと逆だったらいいのに。ダイレクトメールなんかは半年で消えてしまっても誰も困らないのだ。
すべての紙の上の情報が堅牢である必要はない、ということ。これは上水道の問題に似ているぞ。すべての水が飲めるほどきれいである必要はないはずだ。同じようなものは他にもいろいろあるのではないか。本当はランクを分けたほうがいいのに、コスト的な問題から品質が高級な側に揃わされてしまっているもの。
感熱紙上の情報は、印刷のように何か物質が付着しているわけではない。紙の上の何か気の利いた物質が、気を利かして一時的に黒くなっているだけだ。古典印画技法で使われる「焼き出し銀」、あるいは日光写真のような、現像を必要としないプリントと似たような現象とも言える。つまりこれは写真と関係のない話ではないのだ。とにかくそれが消える、というのは、困るというよりはむしろ清々した気分になった。おそらくその周囲の100年経っても消えそうにない堅牢な印刷物のゴミとの対比で見てしまったからだろう。しっかりと物質化してしまった情報を消すのには、ちょっとした精神的な努力とちょっとした肉体的な労力が必要になるのだ(うんざり)。
デジタル写真は「はかない」ということになっているのだが、これはある意味では正しく、ある意味では間違っている。デジタル写真は一枚岩ではなく、データとそのあらわれ、の二つの様態を持っている。あらわれはブラウン管や液晶モニタ上に信号が展開している時にだけ成立する動的な存在であり、たしかにはかないと言える。ウィンドウを閉じてイメージが消えるたび、表層雪崩が起きているようなものだ。一方のデータも、消去すればあっさり無くなることになっているが、実はデータの完全な消去は結構厄介で、どこぞにいつのまにかコピーが出来ていたり、断片が残っていたりということがある。鋼鉄の堅牢さではなく、ウィルス的な、遺伝子的な、ゲリラ的な堅牢さ。こういう堅牢さが実は強いということを、今誰しもが経験しつつあるのではないか。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。「生きることは、見ること」が信条。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
