Vintage article series: CAXAPOB 20030111 – 20030923
空気は透明で流動的だが弾力性もあり、粘性もかなり高く、触ったり食べることすらできる。地球上の動物の空間認識に関してかなり支配的な役割を担っている。われわれがものを見るときはものを直接見ているのではなく、ものから反射(あるいは放射)した光が空気を色づけるのを見ている(そうでなければ視覚のにじみは起き得ない)。たとえば生態学的視覚論の中でJ.J. Gibsonはそうは書いていなかったが、わたしはそう考えている。
展示用のイメージを選択している。およそ1万5千枚(枚という単位はもはや、変だ)のイメージから、30から50枚ぐらいまで絞り込む。ギャラリーで展示をする意味がもしあるとすれば、この選択作業によってイメージ間の連鎖の強度、文脈の純度を上げることができるという点だけだろう。設定したテーマに沿わせる、というトップダウン型の圧力をかけて、イメージ群の再編作業を行うということ。あるいは醸造酒を蒸留してスピリッツを作るようなものかもしれない。いずれにせよ行為のベクトルは古典的な方を向いていて、後ろ向き感覚のやるせなさにおそわれることになる。展示会場にマシンを持ち込んでスライドショウにすれば逃げられるのかもしれない。しかしそれではわたしの場合、1995年の初個展まで逆戻りすることになってしまうから、やらない。
削る部分の方が過剰に多い場合、削れてなくなったものが逆にはっきり見えてしまうことになる。少なくとも作者本人にとっては。自分から外に出してやったものだけが公式に存在したものになる。まあそれはどうでもいい。削ることがイヤだとか辛いとか言っているわけではない(もちろん肉体的には辛いが)。今たぶん気になっている問題は、Webは収穫加速装置つきワイナリーであり、ギャラリーはブランデーを出すバーであるという現在のデジタル写真表現の生成環境の認識だろう。本当にそれでいいのだろうか。それでしかあり得ないのだろうか。

