Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027
引越の準備と称して、部屋のあれこれを引っかき回す生活が続いているのだが、棚の奥から大量のモノクロ銀塩プリントが出てきた。これを全部捨てた、と書くとかっこいいが、残念ながらそういう潔い性格をしていない。記念に保存することにして大学の研究室に運んだ。おそらくもう銀塩写真はやらないと思うから、手間ひまかけてプリントを作った行為の、その記念という意味なのだろう。過去の存在を殺して埋めてしまえば、いずれゾンビになって出てくる。また何かの拍子にそこに退行してしまう恐れがあるから、消極的に共存関係を維持する。変な理屈だ。
久々に自分の焼いた銀塩プリントを眺めていたら、自分がなぜデジタルに移行できたのか、その理由が今さらながら感得できた。モノクロの銀塩プリントは、はっきりと「もの」である。漆塗りのお椀やワイングラスのような工芸品である。今あえてわたしがここで書く必要もない、周知の認識であるが、それがいよいよありありと、どうにも否定できない強靱さで再び理解できた。今そのような認識に至る目を持てる段階まで来ている、ということを愚鈍に執拗に書いておきたい気がする。
このところデジタル写真について、美学面での言説がようやく見聞できるようになってきたが、相対して浮上するはずの銀塩写真の物質性について、あからさまに語ろうとする姿勢がないのは一体なぜだろう。耳目に入る言説ではデジタルの複製可能性だとか消去性だとか、デジタル側の性質の特異性だけをあげつらうことが目立つ。つまり銀塩写真を地表面として、確固たる不動のベースラインとして位置づけ、デジタル写真は基礎のあいまいな空中の仮構物、不安定な砂上の楼閣として描こうという意図ばかりが見え見えなのだ。なぜ銀塩写真をスタンダードとして据える必要があるのか。銀塩を基準として静止画像を語る枠組みは、本当に今後も長期にわたって寄って立つことの出来るパラダイムであり得るのか。有効期限はもうとっくに切れているのではないのか。
銀塩写真から離れることのない写真家たちは、「もの」としての印画紙と、その上に展開される画像形成の現象が好きなのだ。否定的な意味で言っているのではない。わたしだってその美的価値は十分にわかっているつもりだ。持てる性能を完全に引き出された銀塩印画紙のプリントは、心底から美しいと思っている。しかしそれだけが写真であるという物言いは、いただけない。それはもはや効力を失っている。銀塩写真は写真そのものではなく、写真の一部の領域にすぎない。なぜこの簡単な構造の再編成を冷静に認めようとしないのだろう。
まあ、写真家はまだいい。批評家たちのデジタルに対する態度こそがより問題だ。まずデジタル写真を「デジグラフィ」と称して切り離す必然性がよくわからない。デジタル技術による写真はむしろ銀塩よりニュートラルで、より写真的ですらある。それをあえて切り離そうとする力は、銀塩至上主義の正直な裏返しとして現れたものであろう。デジタル写真をエキセントリックに語れば語るほど、銀塩写真を称賛することになるという構造がそこにはある。冗談ではない。そんな批評ならないほうがマシだ。
『美術手帳』の最新刊、幸か不幸か今手元にないので誰が書いたのか忘れたが、fotologを取り上げたものがあった。それに比べて写真家が作家サイトを張っているのは古い、みたいなことを言っていたように記憶する。ネット社会における匿名存在の優位性に着目したこの物言いは一見、正しいように思われるが、実は論者はまさにそのネット現象の落とし穴に落ちている。匿名的(非作家的)写真が大量にリンクされていることをあたかも新しい表現のごとく持ちあげているのだが、fotologと作家サイトは機能するところが全く違う。この批評家は「2ちゃんねる」には文章がいっぱいあるのから、もう文芸は古くてダメだと言っているのに等しい。ネットを知らない批評家に表面的なネット上の現象について語らせるのはどうしても無理があるのだ。
ちょっと酔っぱらっているようだ。声を荒げてデジタル写真を取り巻く現状を糾弾し自説に導く、というような役割はわたしのものではない。これからもただ坦々と、日々の生活をデジタルデータに変換し続けるのみだ。


