【ある目的で書いてしばらく放ってあったんだけど、今読んだら何だか堅すぎて使えない感じがしてボツ。書き直します。この堅いのはメモ代わりにここに載せておくことにします】
写真の好ましいところは、撮影をする主体が、写真に示されているまさにその場に居合わせたということが、見る者にもっともらしく受け取られる点にある。写真の意味はつまるところそこにしかないのだ、とすら思える。このもっともらしさを支えているのは、光の投射による二次元写像の発生とその定着である。写真の発明は実は定着方法の発明であった。写像の定着が化学的な物性の変化によって成されるのか、あるいは電気信号への変換を介した論理的な信号の蓄積によって達成されるのか、現在われわれが使っているふたつの写真生成の原理の間には、かなり大きな断絶がある。
現在の写真装置というのは、撮影者がこの断絶を意識することなく撮影を行えるように仕立てられている。さらに写真を見る場面においても、この断絶について積極的に考えようという態度を示す者は多くない。写真を成立させている物理の構造、受容の構造、そのどちらにおいても、写真について起こった基盤的な原理の組み替えという歴史的な断層線は、意識的にも無意識的にも隠蔽されているように感じられる。
ピンホールカメラとフィルム、というシステムで撮影を行っていた頃、しきりと考えていたのが西遊記に出てくる瓢箪であった。孫悟空の持った瓢箪に銀角、そして金角が吸い込まれる昔話さながらに、対象がピンホールの穴から吸い込まれ、暗箱の中で融かされ平面にねじ伏せられるというようなイメージだ。フィルムを使っている限りにおいては、ピンホールをレンズが代えたところで、基本的なイメージは変わらなかった。暗い箱の中で対象の姿はどろんと溶けて、感光材料に貼り付いてしまうのだ。
それに対してデジタルカメラによる撮影では、画像を定着させる仕掛け以外は基本的に同じ仕組みなのにもかかわらず、おどろおどろしい魔法がイメージされることはない。代わりに頭をよぎるのは冷徹なロジック、すなわち標本化と量子化という二段積みで成り立つサンプリングという理論である。対象の姿は物質に貼り付く寸前に格子状に細かく切り刻まれ、碁盤の目の上の碁石のような姿に置き換えられる。碁石の間隔は均等であり、行の数や碁石の色など、すべてはあらかじめ決められた範囲内での組み合わせによって差異が表現される。この還元的な世界では、整然と並んだ碁石の間に無理やりもうひとつ碁石を突っ込むような恣意は許されない。
このように画像生成の根底部分が全く別の原理に移行してしまったのにもかかわらず、そのことに意識的でない撮影者の姿勢というのが自分としては理解できない。その隠蔽された移行から何らかの意味の変化を検知し、表現に反映させていくのがむしろ自然な流れではないのか。古いシステムに固執すること、新しいシステムの表層だけを利用することや単なる表層的なスタイルの変化ととらえること、それらはどれも避けなければならない。写真の基層部分に現れた断層の存在を認識するところから始めて、新しい基層の上に乗った写真というメディアの限界を思考し、受け入れ、その上で行ないうる表現に手を染めること。
デジタルという環境にどっぷりと漬かってその中で試行錯誤する面倒は、撮影の為にフィールドに出かけ、雨に降られ、風に飛ばされ、泥に滑って、草に手を切られなどする面倒と何ら違いはない。
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テレビの発明はいつ?
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