Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027
夢から覚めて「おれは天才だ!」と叫んでしまうバカ者である。今の夢をそのままビデオに撮ればとんでもない映像作品になる、というわけのわからない価値判断を目覚める瞬間にしてしまっているのだ。何とかしてその場面場面を記憶しておこうとしたり、あるいは続きを見ようとしたり無駄な努力をしてみても、その衝撃は失せ色も褪せ、何でもない日常感覚に収斂していくのみだ。そんなことを何度も繰り返している。
何日か前に見た夢は、夢の中で他人の映像作品を見せられて、その出来栄えに嫉妬する、という面白い構造をしていた。夢の中の他人の作品は、それを含む夢全体を作り上げているのは自分である以上、それがどんなに素晴らしくとも嫉妬するに値しない。冒頭の叫びと同じ理由でむしろ喜ばしい事態ですらある。しかし夢の中にいるわたしはそんな超越した立場は取れるはずもなく、くやしい気持ちはひたすらに強力だった。CGか何かで作ったあり得ない風景の作品を見せられたのだったが、わたしはいわゆるCGをやらないし、CGで作った風景に今まで心引かれたこともほとんどない。つまりわたしは進化した(現実の世界と見え方において完全に等価なレベルまで達した)CGを見せられて驚愕したのかもしれない。そのCG作品が、いつの間にか実写に移り変わり、同時に映像としてプロジェクタか何かで投影していたはずのものが本物の街の夜景に同化していく、という不可能なトランジションが連発する展開はまさに夢ならではのものであったが、その移り変わりの都度「あーやられた」という思いにとらわれ続けた。おそらくこれからはどんどん、自分より若い人たちに負けるようになるだろう。もう人生折り返しを過ぎているのだから仕方がないことだ。そういう一般論を導き出して納得するところなど、まさしく折り返しを過ぎた人間らしい思考になってきたものだ。
空虚な夢の話を書き出すときりがないのでまたにするが、このところ空虚さとの対峙、ということをしきりに考えるようになった。空虚は埋めるのではなく、そのままにしておく。空虚であることを認め、しかし空虚さを読み取り、それと対峙する。もちろん撮影に限ったことでもないのだが、あえて写真行為に翻訳するとすれば、再現やストーリー、目的性など、あらゆる「実のある」方向に傾くのを避けること。ただ画像が現れるに任せるために手足が動き、意志でも偶然でもない力によってシャッターを押すということ。空虚に対峙するといっても対決姿勢をとるのでなく、無心で接し、共存を目指すのだ。

佐藤淳一【カワウソ写真家】 [著者情報] 実はカワウソに限らない写真家。平成19年度宮城県芸術選奨受賞。主な著書に『恋する水門』(2007年/BNN新社)、『ドボク・サミット』(共著/2009年/武蔵野美術大学出版局)、『カワウソ』(2010年/東京書籍)他がある。展覧会は『ニーダーフィノウの鉄の骨』(2006年/Gallery Maki)、『アートみやぎ2007』(2007年/宮城県美術館)、『カワウソおもろいねん!』(2013年/海遊館)、『大都会の野生カワウソ』(2018年/埼玉こども動物自然公園)他、1995年より多数開催。雑誌『ワンダーJAPAN』、『土木技術』、スポーツ紙『東京スポーツ』で写真と文を連載。『タモリ倶楽部』(2008年/テレビ朝日)、『出没!アド街ック天国』(2012年/テレビ東京)等に出演。「生きることは、見ること」が信条。芸術と研究を足してサブカルで割った「リサーチ・エンタテインメントとしての写真」を専門とし、土木構造物と野生動物という、かけ離れたふたつの領域で仕事してきました。
