Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231
●まとまった時間がとれなくなってしまうと、ページの更新ができなくなる。リンク先のURL変更の対応などといったマイナーアップデートを除くと、前回の更新からすでに一月半も経過していることに気が付いた。それはつまり、このページには日々わたしの中を通りすぎて行く些末な情報を蓄積し、保存再生するようなうまい仕掛けが欠けているということなのだ。
webページで日記のようなものを書く、という行為を、正直なところ今まであまり評価していなかった。だからこのページは、今までにまとめた文字や画像といった情報を、デジタル化して、さらに多くの人々に見てもらうという機能に徹してきたのだ。そしてそれはもう、ある程度の目的を達したような気がする。
このページを置いているサーバ(bunny.co.jpの方ね)の世話をしているのはわたしなので、ページにカウンターを付けていなくても、どのぐらいの人がこれを見てくれたのかはログでわかる。特定の場所から、繰り返し見てくれている人がいることもわかっているつもりだ。この場を借りてお礼を申し上げたい。しかしこのところ気になって仕方がないのは、この半年間でずいぶん訪ねてくれる人が増えたのにもかかわらず、レスポンスとして帰ってくるメールの数は、逆に減ってしまった、という事実だ。これは何を意味するのか。
ひとつはこの半年間でwebの個人ページというものの社会的な位置に何らかの微妙な変化が生じた、ということ。おそらく以前メールをくれた人達は、自分でもページを持ち、同じ仲間同士という感覚でレスポンスを寄せてくれたのであったろう。今見てくれている多くの人達は、多分そうではないのだ。ついにこのメディアにおいても、作る側と見る側の分化が起き始めたとでもいうのであろうか。これはもちろんわたしの早合点であってほしい。
もうひとつは、これは相対的なものに過ぎないのだが、わたしが高いところからものを言っているように見えるようになってしまったこと(笑)。練りに練った硬めの文章だけ載せていると、どうやら近寄り難い雰囲気ができてしまうようなのである。いったいこの人は日常、何を考えて暮らしているんだろうか。そんなわけのわからない人にメールを出してみようなんて、かなり勇気のいる行為ではあります。このメディアでは、それは大変にまずいことなのだ。
もう一度、地べたから始め直してみよう、と思った。webの特性であるリアルタイムに近い情報の保存再生と考えの表出を通じて何ができていくのかを、自分でも実験してみようと思う。従来の手法では作品化されないで埋没されていくような情報でも、このメディアではどうやら残すことができるようである。作者側の取捨選択を経て唯一無二の作品ができあがっていくのでなく、各々の受容者との関係において各々の作品ができ上がっていくような構造が見え隠れしている。

