「写真部」のイデオロギー

Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027

秋になって、デジタルカメラを使う、それもコンパクトタイプ推奨、というノリの写真の授業をふたつスタートしている。どちらも見かけは、写真の授業というよりコンピュータの授業のように見える。デジタルだからこれは仕方がない。

先週の初授業の時に、キーボードの手慣しと、プリンタの様子見を兼ねて「自分にとっての写真とは?」という授業内レポートを書いてもらった。今それを読んでいたら、ひとりの学生がこんなことを書いていた。こっそり一部、引用する。

「母からゆずってもらった古い一眼レフを首からさげて、高校時代はとにかく写真を撮りつづけていた時期があった。ほんの短い時期だったけれど。写真部に入ろうとしたら、そのころ金色に近い髪の色をしていたわたしや友達は、メガネのちっちゃい顧問の先生にあっけなく入部を拒否された。」

・・・これは一体、何なのだろう。

以前どこかで、自分が中学の時に写真部という組織に感じた違和感と、忌避の気持ちについて書いた。まじめくさって正義をかざし、一定のスタイルを強要する、何か。それはかつてわたしが写真がキライであったことの原因なのだ。それは今思えばリアリズムという戦後の一時期に一世を風靡した、イデオロギーにまみれたちょっとおっかない写真運動の一端に触れた経験だったのだ。それがどうやらいまだに存在するらしいことを、この学生のレポートは告げている。

リアリズムに限らず、かつて興隆した表現スタイルはやがてイデオロギーとなり、規範となり、最後には「道」になり、家元制度になる。たしかにかつて、写真が社会に対して直接的な批判の武器となった時期はあっただろう。それはもはや、有効ではないことをもういちどはっきりと確認したい。もちろん社会批判に意味がないとは言っていない。現代の批判はもっと高度に複雑化したスタイルで成されている。それはたとえ同じ画像を見ていても、読み解くコードが全く違っているということなのだ。つまりそれはかつてフルッサーの言った、画像とテクノ画像の違いと見なしてよいのではないか。もういい加減われわれは、テクノ画像を読み解くコード系を身に付けなければならないということだ。

他の学生のレポートには、この授業を取るためにデジカメを買わされましたが、おもちゃのように使えて面白い、などとあった。このように軽やかに画像を弄ぶことが、今、必要なのではないか。真面目不真面目という二元的な価値判断には、もはやほとんど意味がない。

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