Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027
今年もゼミ展の季節が近づいてきた。3年生の前期ゼミはウェブアート、後期はエレクトロニクスアートをやることにしている。デザインと名が付いた学科でデザインと名が付いた授業なので、本当はデザインをやらなきゃいけないのだろうけど、ひとりぐらいデザインをやらない、という教員がいてもいいんじゃないかと勝手に判断してそういうことになっている。おそらく学科の多様性に寄与しているはずだ。そう思えば別に心苦しいことはない、と思う。
教える、というのは実は知識やテクニックに限定される行為なのではないか。考え方や気持ちの持ち方、さらに大上段に構えて生き方、なんてのを教えるのは難しい。おそらく授業という限定された時間の中では無理で、そこではきっかけを話すことぐらいしかできない。しかもそういった類の精神活動はひとりひとり違う反応をするものなので、結果的に個別対応となり、場合によってはカウンセリングみたいになってしまう。かつて毎回のように飲みながら授業をするような絵描きの先生もいたらしいが(今でもいるかもね)、ある意味では実に正しいやり方なのではないか。美大というところは、少なくとも学問をやるところではないものと思っている。
3年前期のゼミ展では、毎年わたしが「お題」を出すことにしている。今までのテーマは、『森へ帰ろう』、『橋を渡る』、『波を数える』、『夢を計る』、などと、対象と動作が対になった短い文の形態をとっている。最初のころは、えいやーっと思いつきで決めていたのだが、ここ2年ぐらいは具体性を帯びた対象と、一般にはその対象に付随することのない動詞を組み合わせるスタイルにしている。そのミスマッチ感が何か作品制作へと向かう、あるいは何らかのアクションをもたらす引き金となるように、と考えてのことだ。さてこのお題、毎年毎年のわたしの問題意識がそれには色濃く反映している。こんなイカレたテーマで作品を作らされる学生はたまったものではないような気もするが、他のゼミを選ぶ自由もあったのだから文句は言わせない。そして今の問題意識からすると、今年は空虚、というようなものを何とかしろ、ということを要求することになりそうだ。
お題の提示とほぼ同時に、学生たちと学外に出かけることにしている。雨降りの神宮の森に行ったり、多摩川の河原に行ったり、鎌倉で小杉武久の展覧会を見たりといった具合だ。去年のは傑作で、夢のことを考えていた矢先にいつも世話になっている永代橋のギャラリーで、作家の名前を忘れてしまったのだが自分の見た夢を箱の中に立体として作り込むという大変に面白い作品にお目にかかった。これは学生にも大受けだった。他人の夢の話を聞くのはつまらないことが多いが、それをわざわざ立体化したとなると話は違ってくる。夢の箱詰めは100個ぐらいあって本気でイカレていた。今までに見たことも聞いたこともないようなものが、じゃんじゃん出てきて素敵だった。
今年はどうしようかと思っていたら、テーマとしてはかなり近い線を行っている展覧会がワタリウムでやっているのを発見した。『Empty Garden 2』なる企画展で、あまり期待せずに行ってみるとこれが予想以上に地味で、本当に空虚感いっぱい(笑)の展覧会であった。中でもトーマス・フレヒトナーは拾い物(失礼!)で、インドの香料園だかで撮影された写真のスライドショーはその意識の抜け方において、今のわたしの心持ちに実にしっくり来るものがあった。さらに最後の作品を見るには館外に出されるようになっていて、めんどくせえなと思いながら歩いた青山辺の裏道が実に不思議で、何か月か前に夢で見た「青山通りの脇道に入ると廃火葬場があって、高い煙突の背景がオレンジと紫のだんだら模様の空で、大量のススキが風にそよいでて・・・」というようなキレまくりの夢をフラッシュバックさせるような場所(お寺があるんですよあんなところに!)と出会ったりした。


