マルセル・デュシャン展

横浜美術館。昨日見に行った。

デュシャンはとにかくいろんな人たちが参照したりパロったりオマージュを捧げてたりするわけだが、わたしはいままでその作品を知らなすぎたので、これは必見でした。いわゆる『大ガラス』とは一体、何なのか。そのタイトルである『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』の最後の部分の「、さえも」とは一体、何なのか。「(笑)」みたいなものか(笑)。ま、とにかくその他いろいろ長年ひっかかっていたデュシャンに関する疑問をやっつけに行った。

レディメイドと称して作品の作家が手で作ったことによる価値を否定し、現代美術の幕を開けた、というのは定説どおりなわけだが、「ブツ」で勝負している限りはどこかで物としての価値化の波をかぶってしまう。出現した当時は確かにそれ自体は無価値な文字通りのレディメイドであったものが、時代を経ることによって、そして作家が死んでしまえばなおのこと、聖遺物としてその作品は物として価値化される。作家の行為が歴史上にマッピングされてしまうことによって発生したある質のようなものが、ヨリシロを求めて作家にまつわる物質を、片っ端から価値化していく。「現代美術の古典」に接するたびに、いつも感じる可笑しさ。その源泉はまさにここにあったのだな。もっともそれはデュシャンのせいではない。彼はただ、やりたいことを死ぬまでこつこつとやってただけなのだ。20年かけてこっそりと作り上げられた遺作を見ると、それがわかる。

タイトルとURLをコピーしました