・・・ぐらいに考えていたわけだ。『恋する水門』の想定読者層。
しかし、昨日届いたメールで、80歳を超える方が買って読んでくださっているということを知って、ぶったまげた。
水門サイトはじめて何年かたった頃、ぼくはパパにすいもんこぞうとよばれています・・・という感じで小学生からファンメールをもらってぶったまげたことがあるが、今回はそれ以上に意表をつかれた感じがする。上の方の年齢は全く考えていなかったからだ。っていうか普通、メールをくれる人は自分の年齢を明かさないことが多いので、相手がいくつぐらいの人なのかは文体で判断するしかない。だからひょっとして今までも、かなり年長の方まで見てくれてたのかもしれない。
水門が気になる人、というのは、決して数は多くないのだけど、老若男女に関係なく、ある割合で必ず存在する。
どうして人はある特定の機能、形態を持つものが気になって、それに惹かれてしまうのか。このこと自体がとっても深い謎なのだが、とにかく10年ぐらい前まで(本格的なネット社会以前)は、人の特殊な嗜好が横につながっていくことは稀だった。希少性の高い対象であればあるほど、他にこんなもん好きな人いるわけない、とはじめから決めてかかっていた。そして他者と接する際には、話をメジャーなものに合わせていたりしたものだ。
せっかく生まれた蓋然性の高くない状態(ありふれてないこと)を、メジャーという蓋然性の高い状態(ありふれていること)に合わせなければいけなかった(情報を他者との共有によって記憶させる可能性の消失)というのは、情報というエネルギーをそれこそ無駄に放熱していたことになる。
ネットワーク社会の発達が必然的なものであるとすれば、人間はノイズに向かおうとする世界からせっせと情報を拾い集め、それを他者と共有することによって保存し、価値付けするなどして活用するために生きているのだというヴィレム・フルッサーの物言いに深く共感できるのであった。
あれ?
書いているうちに、何が言いたかったのか忘れちゃったぞ。