『写真芸術論』から40年

9c0ff723.jpg現在、写真表現を教えるに当たって、教科書というものを設定する必要があるとすれば、どのような本が使われているのであろうか。写真技術でも、写真の歴史でもなく、写真の表現についての教科書である。

「・・・写真の表現性は自己の表現を犠牲にし、個性を疎外し、それにかわるなにものかをとらえることによって独自性をかちえたのである。その「なにものか」とは、人間がカメラという機械を駆使することによってのみとらえることが可能となったヴィジョンだと、ひとまずいっておこう。そのヴィジョンは個性的色彩に染まらないところの、普遍的なリアリティをともなったものと、いまかりにいっておこう。」重森弘淹/写真芸術論/1967

こんなあたりまえのフレーズを引用することもないように思われるかもしれないが、わたしはこの本のこの箇所が好きなのである(抜き書きして壁に貼ってあるほどだ)。このもう40年も前に書かれた言葉の味わい深いことよ。ほとんど冒頭ともいうべき21ページ目に書かれているためか、まず結論から、それも仮に言っておく、というような書き方をしている。そのあたりに何というか、重森弘淹という人の奥ゆかしさと言うか、正確さというか、気の使い方の美しさのようなものがにじみ出ているようで、何とも好ましくも思ってきた。

『写真芸術論』に書かれた内容は、今そのまま教科書に使うわけにはいかないものだが、その根幹部分は全く古びていないことに今さらながら驚かされる。重森弘淹が凄い人だったことは言うまでもないが、写真表現の考え方は少なくともこの40年のあいだ、全く進化してないといういうことに気がつくのであった。

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