Vintage article series: CAXAPOB 20030111 – 20030923
なんだか体力が確実に落ちてきている。しかしいつまでも寝ているわけにもいかないので無理やり仕事に復帰。その「光そのものは見ることができない」ということ。これは少し冷静に考えてみると大して無茶な話でもない。われわれは基本的に光が何かにぶつかる状態、を見ている。反射も散乱も、基本はぶつかることだ。もし光が何にもぶつかることなく、目の前を素通りしたとしたら、われわれは光を知覚することはない。この段階では何となくそんなものか、という気になる。しかし光源を見れば光そのものが見えるではないか、というツッコミに対してGibsonは、それは光エネルギーが目という受容器に刺激を与えた経験が、視覚と誤って結びついたものであって、光そのものが見えるということとは区別する必要があると言ってのける。この言葉に行って帰って来たとき、初めて真の驚きが立ち現れるのかもしれない。光源を見ることなしに、目の前を光が走っている状態を考える。その目の前の光は、何かにぶつかるまでは、決して見えないのだ!!!しかしこれは何もない、まさに空(くう)の中での話、文字通り空論に近いものだ。われわれの生きている生活領域には空気がある。空気があるというのは、実は生物学的な問題の範疇に収まりきらない(つい、そう考えがちである)。空気があるということは、光がぶつかるもの(空気の分子)がある、ということだ。つまり空気があってはじめてわれわれは「空中が見える」ようになる。空中が見えたことによって人間は、「空間」という概念をでっち上げることになる。Gibsonはこのような論法で彼の最大かつ最強にラジカルなテーゼ「空間は神話であり、幻影であってまた幾何学者のための作り事である」にわれわれを導くわけではない。しかし空気をキーワードにして噛み砕いていくと、こういう乱暴な解釈も許されるのではないかと思えてくる。

