Vintage article series: Humdrum 19971020 – 19991231

カメラをバージョンアップする、ということについて。それは買い替える、ということではなく、デジタルカメラのファームウェア(動作プログラム)のバージョンアップのことを言っている◆デジタルカメラは使っているうちに、それがデジタルであるかどうか、だんだん考えなくなってしまうのであるが、バージョンアップして今までなかった新機能が現れたり、電池の持ちが多少よくなったりする、そんな変化に遭遇すると、実はこれはやっぱりコンピュータなのだな、ということをふたたび認識させられてしまう。もちろん銀塩写真のカメラであってもきょうびCPUのひとつやふたつ内蔵しているのが当たり前だ。しかしその動作プログラムを(ユーザが)更新する、というような行為は今のところ寡聞にして知らぬ◆わたしの使っているKodakのDC210というデジタルカメラは、アメリカのKodak本社ページからは最新版のファームウェアが自由にダウンロードできる。これによって日付の画面書き込みができるようになったり、液晶画面のメニュー言語をドイツ語やらフランス語やらに変更できる(だからどうした、というところもあるのだが、もちろん日本語も入っている)◆ここで面白いのはメーカ側の考えるユーザ像が、日本とアメリカで明らかに違っている、という点である。つまりユーザにどこまで委ねることができるか、という境界線が、日本とアメリカではちょいと違った位置を走っているのだ◆日本のユーザはマニアと「お客さん」ばかりで真ん中がない。徹底的にいじくり回す少数のユーザがいて、一方の大多数は自分はお客さんであるからいたれりつくせりサービスせよ、とばかりに踏ん反り返っている。こういうユーザ構造だとメーカとしては「ちょっと協力してくれるとぐっと良くなるんだけどな」的情報は危なくて流せないのだ。提供したところで、何だそんなことまで客にやらせるのかよ、的なネガティブな反応が帰ってくるのが関の山だからだ。それでもバージョンアップを、という声に対しては、サービスステーション送りで何万円いただきます、みたいな対応になってしまう。悲しいね◆アメリカという文化の特徴のひとつは、自分で何でもやってしまうという点にある。ユーザにも「あなたのリスクでやってね、保証はしないけど良くなるよ」と割り切って何でもやらせてくれるようなノリがある。わたしとしては全面的にこちらの方が好ましい。責任は自分で負うから、もっと自由にやらせていただきたいのである◆もちろんこの文化の延長線上には、他人の家の庭先に好き勝手に巡航ミサイルを打ち込んで「正義の味方」を決め込むような厄介な顔も見えてしまうのであるが。

