ディスカッション三つ

このところ雨降りその他で撮影はまーったく進まない。それに呼応しているわけでもないのだろうけど、並行して3人の人と、それぞれ一対一でメールでディスカッションのような状態に陥ってしまっている。ディスカッションはまあしばしばあることだが複数の話題が同時にパラレルに進行するということはこれまであまりなかったのでかなり面白い。話題としては表現者のモチベーション、生物学的性差の境界線問題、ピンホール写真家のアメリカ・ヨーロッパ・日本の比較、と結構ばらばら。●高橋朋久さんとのやりとりでは最初に、3/14にわたしがこの場に書いた、web空間における表現の手ごたえのなさを嘆いた文にカウンターパンチをいただく。「手ごたえ」をwebに求めるのは難しい、という指摘だ。もっとも、手ごたえがないと嘆きつつも現に続けていられるのは、何らかの曲折した手ごたえなり満足感なりを実は得ているのではないか、という。「続けられるとすれば、そこには何か自分でもわからんような、すごーく遠まわりな回路で得ているものがきっとあるはず。」なるほど確かに何かを得ているのかもしれない。未だこれがそれだ、と対象化できる段階には至っていないのであるが。web上の写真表現とはおそらく日常と乖離しないレベルから行われる行為、すなわち歌人俳人詩人といった類の人たちが寝ては詠み起きては詠みしているような在り方を写真に適用したものなのではないか、とはわたしの私見。詩歌っていうアナロジーはここでは、デジタル化によってついに画像情報もテキストと同じレベルで再現可能性を身につけた、ということの象徴のように考えるわけね。その後、ではその表現とやらの原動力になるものっていったい何なんだろうという、ちとやばい深みにはまって、現在ポストモダニズムに潜むニヒリズムの批判まで話が進んで当分収拾がつきません(笑)。●毎度おなじみ黒木和人さんとは今度は性差のあいまいさについてのやりとり。わたしも境界線をテーマに表現活動をしている者のはしくれとして、最終的にはジェンダーの問題に触れざるを得ないと思っていろいろ考えてはいるのだが。彼は最新の知識を援用してわたしの個人的狭量な経験に基づく性差の認識を揺さぶります。わたしとしては男女の差という境界線のあいまいさは頭では十分に認識しているつもりなのだが、このところ生物学的に強烈な現実の中にあるせいでその境界線のアイマイさの認識度が以前より低下していたところを突っ込まれる。「確固たる境界線」というのは、すべて人為的な制度によるのものなのかもしれない。だから境界線を批判的に検証しようとすれば、おのずと近代の文明を批判的に検証する、という一般論になってしまう。●グレッグ・ケンプさんは Pinhole Vision というピンホール写真のweb上でのリソースページで最大の情報量を誇るサイトを主宰してる人で、ここにはわたしも3月の個展の告知等でお世話になったりしている。彼は先日、日本のYahoo!を見てピンホールのサイトが日本に少なからず存在するようなのを知ってショックを受け、早速メールで連絡してきた。日本ではピンホールは盛んなのか?と。彼が見たであろうページはほとんど日本語ページであり、読めないから助けてくれ、ということらしい。そこであらためてわたしも日本のピンホールページを片っ端からチェックする羽目になる。それでわかったことは、日本のピンホールページの大体95%は、ピンホールとピンホールカメラの作り方、プラス作例写真である、ということだ。驚いたことに「作品」としてまとめられているのは、自慢するわけではないがわたしのページだけのようであった(日本在住のEd Levinsonさんの作品ページはPinhole Vision内にあるけど彼の存在は特例だね)。そのように返事して内心これは困ったなあと思ってると彼が言ってきたのは、ヨーロッパにはピンホーラーが何人かいて、サイトもぼちぼちある、日本にもずいぶんサイトはあるようだがどうも日本とアメリカの壁はえらく厚いぜ、ってそりゃあそうだろう。壁に穴をあけるのは確かにピンホーラーの仕事ではあるが(←うまい!)。さて次は彼に日本のピンホール事情をもう一度、説明しなければならないようだ。

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