写真を消す

●デジタルカメラのデジタルカメラらしさ、を感じるのは、カメラ内のメモリーから画像を消したときである。特に出先でメモリーが足りなくなって、以前の画像を一枚ずつ消してメモリーの空き領域を作る行為は、たいへんにデジタルな情緒の中にある。「なぜ写真を燃やすのか」と聞かれて「写真家だからだ」と答えたのは1977年ごろの中平卓馬だが、1998年においてはたとえ写真家でなくても写真を消す、という行為は日常的な行為になりつつある。こんなことを考えるのは、昨日、部屋の整理をしていたら7、8年前の手紙の類がごっそりと出てきて、それを夜中に何時間もかけて、処分したりしたせいかもしれない。一枚一枚ちぎりながら手紙を捨てるのは、何だかとても神経にさわる作業だと思う。特に写真年賀状のようなものが、引きちぎるのに余計に力がいるように感じるのは、単なる物理的な強度の問題だけではないような気がする。それに比べて、たまった電子メールを消すのはほとんど痛みを感じない。後に何の痕跡も残らないで消すことができる、というのは何と感情的に自由なことであろうか。人間の寿命はうまく作られた紙に比べて短いのであるから、大切な手紙であればそれをずっと手元に保存しておくことは可能だ。写真もまた然り。しかし自分の寿命が尽きた時、いずれそれらは自分の手を離れる。それを考えたとき、保存の欲求はかなりトーンダウンする。無限の保存スペースでもあれば話は別だが、わたしにとって大量の情報の保存は現実的でない。日本を離れる計画もあるので、この部屋もあと1年後には引き払わねばならない。最近、情報のデジタル化がとても好ましく思えてきた。それは「場所をとらない」ということよりも、「思い切りよく消せる」ことに理由があることに気が付いた。保存するにしても、従来は「手元に残す」ということを望んだのだが、今では「どこかに残っていろよ」ということを考えるようになった。

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