再びのテキスト化に際し

Vintage article series: aperitif 20020103 – 20021205

定期的にweb上で文章を書くのを中止したのは1999年の暮れのことだった。つまりちょうど2年たったことになる。文章を止した理由はいろいろあったのだが、意志をテキストに込めることが、ある種のシミュレーションになって作品を流産させてしまうことや、読んでくれる人との間に生じる好ましからぬ距離感など、そんなことどもを問題にしていた記憶がある。2002年の今、webとそれを取り巻く状況を眺めてみれば、2年前と変わらずに横たわり続ける問題もあれば、とっくに吹っ飛んでしまった問題もあることを認識することになる。ここらで輻輳する思考の位相を整えるためにも、再びテキスト化の作業を行ってみることにする。ただし今度はひっそりとだ。言葉に全幅の信頼を置くことができないのは今でも変わらない。
Web上の写真サイトの数は増えているのだろうか。きっとものすごく増えているに違いない。2年前と今の、デジタルカメラの出荷台数や、ネット人口を考えてみれば、減っていると思わせる要素は何一つない。ではその増えた写真サイトの中で、いわゆるシリアス系というかファインアート系というか、いわゆる「趣味でも営業でもない写真」サイトはどのぐらいあるのだろうか。おそらくそう多くはあるまい。ということは、分子である趣味でも営業でもない写真サイトは2年間でほとんど増えず、分母の全体の写真サイトの数だけ増えている、つまり前者の比率は2年間でむしろ低下した、というかなり悲観的な推察が成り立つことになる。普及に伴う希薄化、ということである。何が希薄になっているのか、は言わないでおくのが花だろう。
2年以上前にも、もう写真と言うのは止そう、と書いた覚えがある。その考えは今でも変わらない。もう写真という岸から離れてしまった、という実感もある。では向こう岸は見えているのか。いや、実は向こう岸なんかは初めっからなかったのである。あればいいな、ぐらいで泳ぎだしてしまったのだが、やはり岸はなかった。ではどうすればいいのか。こういう時は、「作ればある」と考えることにしている。そう、岸を自分で作る必要がある。Web上でなされる静止画イメージを使った表現活動をはっきりとした形でとらえ直すこと。そこに込められた意志の力を単なる思いつきレベルのものと峻別すること。そのためにとりあえず、活動にキーワードを与えてみることにする。Photography as Web-based Art、つまりウェブアートとしてのフォトグラフィ、ということである。なーんだ、なんて言ってはいけない。この切り口は今まで、気がつきそうで気がついていなかったものなのだ。

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