偉そうな人たち

Vintage article series: jsato.org | talk 20040315 – 20041027

若い頃はどちらかというと人嫌い、だった。実は今だってそうかもしれないが、表面的にはうまく人付き合いができるようになっているようだし、何より人の態度というものを観察するのが面白いので、人と話を交わすことは決して嫌いな方ではない。中でも興味を引くのは「偉そう」な人である。複数で話をすると「偉そう」になるのに、一対一で接するとそうでもなくなる人。話をしていると柔和そうなのに、あとで書くものに「偉そう」がにじみ出る人。目下と思った相手には必要以上に「偉そう」に、その逆の相手には必要以上に卑屈になる人。ここ一、二週間だけでもいろんなタイプの「偉そう」な人たちと接した。「偉そう」という態度は一様な、絶対的なものではなく、本当に人それぞれかつ相対的である。つまりどんな場合でもどんな相手にでも徹頭徹尾「偉そう」にしている人というのはそんなにいないのではないか、と思う。

ペテン師の代名詞のように言われているトルコの商人は、基本スタイルとして「偉そう」を身に付けているオヤジが多い。面白いのがその子供たちで、10歳前後でもう店先に立って、立派に接客していたりする。その雰囲気がこれまた父親にそっくりで、身振り手振りがもはや子供のそれではない。ヒゲも生えていないガキが自信たっぷりに、インチキな品物を外国人と見ると10倍ぐらいの値段で売りつけようとするわけだ。それはもう見事なものだと感心した覚えがある。まあこの場合の「偉そう」は文化の違い、売買スタイルの違いから生じる感覚であって、現地ではむしろそれが当たり前。向こうから見たら何も言わない腰の低い日本の商人の方が不気味に見えることだろう。

「偉そう」とは一体、何なのだろう。自負か、虚勢か、あるいは見下しか。いずれの場合でも、そこにある種の狭さが介在しているように思える。ある事象があって、それに対する態度を表明しなければいけない時に、態度の決定に先立って価値判断をせねばならぬ。価値判断を簡単に行うには、条件を狭くすればよい。状況の背後を考えず、相手の言動の裏読みなども一切せず、その場の表面的な情報だけで判断することだ。値踏みが低ければその分、態度は「偉そう」になる。しかも関係に一度現れた「偉そう」は次第に増幅される傾向を持つ。「偉そう」には「偉そう」を持って反応することが多いからだ。だから表面の平静さを重視する日本人同士の会話は、はじめから「偉そう」を押さえる傾向を持つ。その抑圧された「偉そう」エネルギーが、匿名掲示板やウェブ日記にあふれる「偉そう」な書き込みとなって噴出しているのである(おそらくここもそうだな)。日本人の精神生活はネットでようやく均衡が取れるようになった、ということなのだ。まったくもって複雑な精神生活を送っているもんだわれわれは。

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